投稿 ハンセン病資料館を訪れて
当事者が語る凄まじい差別
闇に葬ってはならない歴史
8月某日、東京都東村山市にある国立療養所多摩全生園の広大な敷地の一角に建つ「国立ハンセン病資料館」を、初めて訪れた。
池袋から電車で1時間弱。清瀬駅前で昼食を取り、所沢行きのバスに乗った。車幅ギリギリの狭い一車線の道を走ること約10分。バス停が資料館の入り口のすぐ前にある。夏休みのせいか若い入園者も多く目についた。
「ミュージアムトーク2026」と題した講演会に合わせて出かけた。館内の映像ホールで8月中に2回開かれ、この日は1回目。「家族にまで及んだ差別被害」とのタイトルで、午後に予定されていた。
冷房が効いた館内は快適で、持ち込みで食事ができる広いロビーでは、何組かの来館者が昼食を取っていた。受付を済ませると私はすぐに展示室へと向かった。フロアの各所にある大きなガラス窓に目をやると、園内の草木が夏の陽光を受け輝いていた。
収容された外国
籍患者たち
2階では「ハンセン病療養所のなかの『外国人』」という企画展が開かれていた。療養所に入所していた海外にルーツを持つ人々に光を当てた。最も多かったのは在日朝鮮人であり、過酷な土木作業等に駆り出された。錆びだらけのスコップや鍬などの他に、色鮮やかなチョゴリが飾られ、亡命ロシア人入所者が書いた毛筆の詩もあった。
驚いたのは日本帝国が戦時中に掲げた「大東亜共栄圏」を記した精密な地図だ。私は近現代史に対しては、その実態よりも大きく遅れた技術水準を想像しがちだった。この部屋を見ただけでも、自分に知識や思い込みの浅さを自覚させられた。
午後1時30分からの講演では、「ハンセン病家族訴訟弁護団」の弁護士と原告二人が発言した。司会の学芸員がホール内での録画と録音の禁止を告げた。
コンビニ店も祝福した勝利
田村有規奈弁護士は弁護士登録10年目。弁護士になりたての頃からこの訴訟に関わっていたという(2016年2月第一次提訴)。
「終生隔離は患者絶滅政策だ。無らい県運動で患者たちは犯罪者扱いされた。家族まで及んだ損害の立証と国の責任を問い続けている」。
「私たちはコンビニの前でビラまき情宣を続けていたが、裁判で勝った時の新聞の紙面を、コンビニが店内のカウンター前に張り出してくれた。うれしかった」。田村さんはそんなエピソードを紹介した。
2019年7月24日、当時の首相安倍晋三は、ハンセン病家族訴訟の原告である元患者の家族らと首相官邸で面会し、「大切な人生において大変な苦痛と苦難を強いることになった。首相として政府を代表し、心から深くおわびする」と謝罪した。
原告以外の家族も含めた補償について、立法措置を講じる考えも伝えた。
「患者と家族は、感染を自分たちのせいだと思い込んでいた」。「悪いのは強制隔離を続けて患者の人生を台無しにした国だ」。「差別と偏見をなくすために何ができるか。
埼玉大学のある教授は、『出会い、語らい、触れ合うこと』だと提案した」。田村弁護士はきっぱりと語った。
過酷な家事担った少女時代
裁判原告の二人が一人ずつ舞台に上がった。スクリーンには、各々が準備したスライドが映し出された。
原告番号◯◯番の女性Aさんは、母親と兄が熊本県の菊池恵楓園に入所した。裁判では本人尋問で法廷にも立った。
両親と兄、妹の5人家族。母親は74年間も収容されていた。昭和20年代の後半のことだ。密告で収容されたが、子どもだった
Aさんは「治療が終わったら家に帰ってくる」と信じていた。園名で母はナオコと名乗っていた。2mの塀と監禁室。やがて、「死ぬまで施設から出られないのだ」と知った。実の兄弟が母に「死んでくれ」と言った。母親の存在を抹消したかったのだ。
「私は子供の頃、母親と過ごした記憶がない」。母親がいない家庭で、幼い頃から洗濯や風呂炊きなどの過酷な家事をさせられた。衣類は家の前の川で洗ったが、木綿の着物が水を含むと重く、子どもの手では持ちきれずに流されてしまった。友達は自分の家の周りでは遊んでくれなかった。のけもの扱いにされた。
辛い労働の中でも、家にあった少女向けの童話や小説を読むのが唯一の楽しみだった。Aさんは、持ち時間をすべて使い、用意したメモを読みながら懸命に差別された苦しみを回想した。
差別偏見に耐えた少年時代
原告番号△△Bさんもまた、少年時代のいじめ差別体験を淡々と語った。
福島県で生まれた。村の一角にある療養所と接する道には「危険地帯」と「安全地帯」を分ける手すりがついている。小学校1─2年は普通に通学をしていた。3年生になるとクラスメイトに「どすのこ」と呼ばれるようになった。自分ではその意味がわからずに、帰宅して母親に聞いた。父親はいつも家にいなかったから、どこか遠いところへ仕事に行っているのだろうと思っていた。
感染した父は、療養所で園名を使っていなかった。地域には小中学校が各1校しかなく、すぐに友人たちに感染家庭であることを知られた。
修学旅行に参加しても、自分が写っている写真は一枚もなかった。友達は夜になると部屋で枕投げをして遊ぶが、自分だけは押し入れに閉じ込められて寝た。運動会も辛かった。出店にも行けず、靴に落書きをされた。学校帰りに、後ろから突然、池に突き落とされたこともあった。
シカトされ排除され続けたBさんに転機が訪れる。高校卒業間近に、全校生徒が体育館に集められた。だがBさん一人だけは、保健室で待機させられた。ここでも深い孤立感を味わった。緊急集会が終わり教室に戻ると、級友たちの表情が変わっていた。
「前を向いて歩き続けろ」
担任教師が生徒全員に、Bさんに対する差別と偏見、イジメをやめるよう呼びかけたのだ。「Bよ、病気のことなんか気にするな。前を向いて歩け。うつむいていてはダメだ」。教師が力を込めて言った。クラスのイジメは、その日を境にピタリとなくなった。
結婚し子どもも生まれた40年後に、Bさんは恩師に会いに行った。教師は自分を覚えていたのか、ハグをしてくれた。そしてあの日と同じように別れ際に「前を向いて歩け」と言った。先生のおかげで、現在は孫もいる生活を送っている。
物静かな語り口で淡々と語る過去。限られた持ち時間の中で、どんな結論が待っているのだろうかと、私は細大漏らさずメモを取りながら聞いていた。差別をやめさせようと教師が動いた最後のシーンは、涙なくしては聞けなかった。
質疑応答
参加者との質疑応答が始まった。
質問――「国民を巻き込んだ『無らい県運動』はなぜ起こったのか」。「療養所関連施設を国は残していく方向なのか。それとも解体するのか」。
優しさや思いやりではなく
田村弁護士は答えた。 「すべては国家権力の力。私もそのダイナミズムをつくづく知った。国が方針としてやると決めたら、ものすごい、凄まじい力が働くのです。市民は到底太刀打ちできません」。
「差別迫害される人々に対して、『思いやり』とか『優しさ』が大切という人々がいますが、そうではありません。それは、相手と自分を異質のものとして、上下関係や階級関係を前提にして起きる感情です。そうではなくて、『人権』として考える。人権問題として捉え、対応することが重要です。思いやりにすり替えてはいけません」。
質問――「国民と若者に何を伝えたいですか」。
Aさん「歴史を正しく伝えたい。大多数の言うこと、大多数が選んだことが正しいとは限りません。少数の意見も大切なのです」
田村弁護士への質問
「弁護士マインドは何ですか」。「心からのリスペクトを求めて弁護士になりました。私の好きな言葉に『足を踏まれたものの痛みは、踏まれた者にしかわからない』という言葉があります。本当にそうだと思います」。「施設跡の問題については今、議論を始めています。弁護団としては残す方向で考えています」。
市民集会での取材規制を考える
余談だが、この日は大手新聞社の記者も取材に来ていて、主催者側と撮影許可を求める会場受付でのやり取りが耳に入った。女性の記者は「マスコミでも撮影はだめなのか」と執拗に食い下がっていたが、あっさりと断られていた。私は当然の措置だと納得し、メモを取ることにした。
昨今、ビデオ撮影やスチール撮影、録音を禁止する動きが、市民運動の領域でも広がっているように感じる。一方で、主催者サイドは記録のために自由に撮影や録音を実施している。
こうした流れについては、手前勝手な理屈を持ち出して禁止事項を侵さないほうがいい。間違っても取材者が、何か特別な権力を持っているなどと、思い上がらないほうがいい。誠意をもって交渉した結果しだいで、潔く引き下がり、別の手段を考えることが、誠実で賢い取材者の態度といえるだろう。(秋谷静雄)

外国籍の収容者らが使っていた道具類。療養所内では
治療とは無縁の過酷な肉体労働が強制された。
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