寄稿 書評:「ロシア 女たちの反体制運動」

著者:高柳聡子/集英社新書(2025年4月17日)

「なかったこと」にできない、女たちの闘い

寄稿 高尾 昇

 「1934年の第17回党大会の代議員1966人のうち1108人が逮捕され、多くが死刑に処され、党中央委員会134人のうち110人が死亡(処刑または自殺)」(90頁)「ペレストロイカ以降に公開された資料の分析によれば,1930年~53年のスターリン時代に政治的な理由で有罪となった人は378万人で、そのうちの79万人が銃殺刑となり、死亡した場所や埋葬地がわかっていないケースも多い」(152頁)。スターリンの抑圧は帝政を超す恐るべき時代であった。

 そして今なお、ペレストロイカの自由な雰囲気は一掃され、プーチンの独裁が20年続いている。2022年2月24日、ロシアはウクライナに侵略戦争を始めた。初戦の速攻でウクライナは苦戦。首都キーウ近郊のブチャでは住民虐殺が露見した。ロシア国内では反戦の抗議行動が、当局の熾烈な弾圧でつぶされた。3週間後の3月、半国営放送の第1チャンネルのニュース番組で、女性キャスターの後ろでもう一人の女性が「戦争反対!戦争をヤメロ」と叫び手製ポスターを掲げた。この6秒間のニュースは一瞬に世界中に流れた。少人数でのゲリラ的なアピール行動は今も続いているようだ。

 プーチン独裁下、恐怖にあらがって反戦を示す原動力は何か。著者は、抵抗の核になっているフェミニズムに注目し、本書をものした。抑圧に負けない女性活動家群像、これは帝政時代から連綿と続いてきた。1917年の革命は、確かにレーニンとかトロツキーのような男の革命家が多くのことを果たした。女性はその陰に隠された。例えば、同年2月革命の後の「封印列車」の歴史絵は男だけで戦略論議をしているが、クループスカヤ夫人もそこにいたはずなのだ。

 本書前半1章から3章は、革命前を主に、歴史の闇に隠された女性革命家の戦いを通し現下の反戦フェミニストに続く水脈を明らかにしている。本文はこの部分を抜粋した。なお、4章と5章は、スターリン以後、今日に続く反体制運動である。

第1章 闘う令嬢 ナロードニキの女性たち


 帝政時代からロシア革命への過程は、封建農奴制との戦いだ。ヴ・ナロード(人民の中へ)をスローガンに農村に入り、革命思想を説く。彼らは「ナロードニキ」と呼ばれ、教育を受けた知識層で、主に貴族階級の出身者であった。ミールという農村共同体が、納税や兵役などの義務を果たしていた。活動家は、相互扶助の精神に基づくミールを将来の社会主義体制に移行できると期待した。しかし、保守的な農民たちとの乖離は激しく、期待したようにはならず1874年をピークに、運動は分裂し衰退した。

 ナロードニキ運動の礎は、チェルヌイシェフスキーによる「何をなすべきか」というユートピア小説であった。保守的な家庭で育った女性が、親の決めた結婚から逃れるために偽装結婚し、経済的な自立と自由な恋愛へと至る。現在でも女性解放の古典である。当時の状況を反映し、若い女性たちがナロードニキ運動に多く加わった。彼女たちは、ソ連時代を含めたロシア史の中で最も強烈な印象を与えている。その目的は明確で、帝政の打倒と革命であった。有名な活動家3人を紹介する。

「監獄長官トレポフ狙撃事件」を起こしたヴェーラ・ザスーリチ(1849~1919)

 貧しいポーランド貴族の出、寄宿学校を卒業後、治安判事の文書係をし、農民たちの悲惨な状態を知る。その後、夜間学校で労働者の教育にかかわる。ドストエフスキーの「悪霊」のモデルになったネチャーエフ事件に連座し逮捕された。釈放後、監獄長官トレポフの暗殺に失敗したが、同情的な世論により無罪判決を受ける。その後、テロリズムを否定。スイスに出国後はレーニンらと協力し「イスクラ」を発行する。出版や執筆に専念。10月革命にはメンシェビキの陣営におり、ソヴィエト体制=ツアー体制の残像と批判した。

「恐ろしい女」ヴェーラ・フィグネル(1852年~1942年)と妹たち 

 ヴェーラは、「曲げることのできない人というのがいる、そういう人は折ったり、死ぬほどに壊すことはできても、地に屈ませることはできない」と「人民の意志」派の同志が回想するほどに厳しい人である。スイスのチューリッヒ大学で学び、ロシア政府による妨害で帰国を強いられた。皇帝アレクサンドル2世の2度の暗殺計画に加わったとして1883年に逮捕され、悪名高き監獄に収監。そこで安全と環境改善を起こし、ハンストをやった。1905年後に出国を認められ、スイスから政治囚の救済活動をおこない、革命後も厳しく政権批判を続けたが、ソ連当局からは実質的に無視された。彼女は6人兄弟の長女で、妹たち3人も革命運動にかかわった。

ソフィア・ペロフスカヤ(1853年~1881年) 

 彼女は、アレクサンダー2世を暗殺し、女性政治犯で最初に処刑された。ペテルブルクの州知事の娘で、女学校の時から革命家としての活動を始め、仲間と共同生活。清貧に労働者のように生活し、医療と教育の資格を持ちナロードのための活動をし、テロにも加わった。 

第2章 1917年の女性たち


 2月と10月の2度の革命では、どちらの陣営にも女性がいた。そもそも革命のきっかけは2月23日、ペトログラードの女性労働者による抗議行動だった。飢えを強いながら続ける戦争と皇帝による専制政治批判であり、フェミニストたちの貢献が大きかった。「社会主義になれば男女平等はかなう」とするレーニンらの楽天主義に対し、コロンタイなどは女性の解放と権利は別個の問題と解き続けた。男たちは戦場で不在状態、女が男に代わり社会を切り盛りしないといけない。よって女性は差別されていても、意識においては社会の一員、家族の庇護者として男性と同等であった。女たちは様々な地域、陣営でエネルギッシュに展開した。

革命の受難者 マリア・スピリードノワ(1884年~1941年)

 革命家の中でも特別に驚嘆を覚える人だ。タンボフ県という農村で貴族の役人の娘、農民の過酷な状況をみていた。1905年この地域で農民一揆があり、ナロードニキの流れをくむ、「エスエル(社会革命党)」に加わる。翌年1月、一揆を情け容赦なく鎮圧した、県の警察長官を射殺。彼女は犯行直後に自害を図るが失敗。獄中で恐るべき拷問を受ける、良くも生きていたといえるほどのことをされた。獄中手紙が新聞に載り、農民の味方である彼女を救えと世論ができ、死刑から無期重労働刑に減刑された。刑地移送の通過地では昼夜をわかたず「エスエルの聖母」として人々は集まり、喜び、花束や食べ物、金銭を手渡した。
 2月革命で釈放される。エスエル党は臨時政府と連立を組み、戦争継続を支持したので、彼女はこれに反対し10月革命を支持した。「平和に関する布告」と「土地に関する布告」は彼女の夢であった。12月に連立政権に加わるが、農業政策に反対し政権を離れ、以後は反ボルシェビキに。ふたたび体制との戦い。逮捕、投獄、精神病院への収容、国外追放など、反革命の罪で当局に監視され、最後は反革命の汚名を着せられ処刑された。

ロシア革命の祖母 エカテリーナ・ブレシコ=ブレシコフスヤ(1844年~1934年)

 このような愛称を持つ古参革命家で、ナロードニキ運動に加わったエスエル党のリーダーの一人。父親が村の治安判事をやっており、農奴解放や学校設立のために父親の仕事を手伝う中で農民への愛情と革命への熱が生まれた。キエフやペトログラードで地下活動をした。農民たちは、見知らぬよそ者を容易には信じず、反対に当局に訴え、うまくいかなかった。そのために、1874年から人生の3分の1を獄中で過ごすことになった。拘置所や刑務所、流刑地をあちこち経験した回想記は、帝政時代の女囚の処遇が詳細に記録され、貴重な資料となっている。2月革命で釈放され、ケレンスキーの臨時政府に加わる。10月革命には反対し、チェコスロバキアに亡命した。
 ヴ・ナロードは農民たちから理解されず、失敗したといわれるが、彼女の回想には、農民への失望などは全く見られない。農民が欲しているのは、自分の土地で平和に働くことだけ。「彼らはあらゆる災難にもかかわらず、数千年にわたって人口を増やしてきたのだ」。

 ︿10月革命の女たち﹀ナロードニキの女たちは10月革命で反体制派となるか舞台から消え、代わって出たのがボルシェビキの女性革命家。その2人を紹介する。

女性たちを革命に アレクサンドラ・コロンタイ(1872年~1952年)

 1860年代以降活発になったロシアの女性解放運動は、やがて革命運動と一つになり、男女平等社会を前提としたソヴィエト連邦の誕生に至った。ボリシェヴィキで最も有能で、ひときわ目立ち、現在でも世界で最も知られているのがコロンタイである。フェミニストとして、自由な恋愛を鼓舞する「新しい女性」のシンボルであり、その種の小説をいくつも書いた。知的で芸術的環境で育った彼女は、1893年、親が決めた相手との結婚を逃れ、遠縁の貧しい将校と結婚。5年後には夫や子供と別れ革命運動に身を投じた。1905年の革命を機に国内での運動に力を入れる。彼女の運動の核は女性をめぐる諸問題=女性解放と反戦・平和を求める姿勢で、揺らぐことのないテーマであった。1913年には革命前ロシアで国際女性デモを実現させた。
 労働者階級の女性が大きな一団となり、具体的な社会問題を解決するうえで侮れない力となる、女性の運動は不可欠だと訴えた。女性に決起を呼びかけ、戦争は国を守るものではなく一部の資本家や高官のために農民や労働者の命をかけさせるだけと訴えた。革命勝利後は「新しい女性」のあるべき生き方を描こうとした。家父長制から自由になった女性は性的にも自身の性的欲望に素直にふるまえばいい、と。コロンタイが夢想した未来の社会、自由で平等な世界像は「コロンタイズム」と呼ばれ、恋愛論にとどまらず確固たる女性の生を条件としている。しかし、1920年代以降は外交官として国外へ実質的に追放された。

労働者に学習と教育を ナデージュダ・クループスカヤ(1869年~1939年)
 レーニンの妻である前に、彼女は教育者である。教育を労働と切り離すことなく再構築し、社会主義国家での実践に適したカリキュラムに仕上げ、労働者と教育機関、そして国家が相互に成長していくことを目指す教育改革を志した。しかし、これは集団主義的な教育を重視し、個々の子どもの特性を排除する問題があった。さらに彼女については以下の問題を指摘しなくてはならない。①宗教弾圧,古儀式派を否定し、その後の徹底弾圧をもたらした。②1936年、中絶禁止に賛成した。

 反ボリシェヴィキの女性たち 歴史の片隅に埋もれた彼女らの掘削作業は今も続いている。

1 アリアードナ・テイルコワ(1869年~1962年) 
 「革命前夜のフェミニスト」と呼ばれ、精神的にも経済的にも自立した魅力的な人物だ。クループスカヤらと同窓。ブルジョワ自由主義の立場で体制変革を目指した。カデットの唯一の女性中央委員。2月革命後は首都の議員に、10月革命でイギリスへ亡命し、その後アメリカへ移り亡命ロシア人の支援を続けた。

2「女性愛国同盟」 
 1919年、アルハンゲリスクでキリスト教徒による反ボリシェヴィキの組織を結成した。白軍の支援をし、翌年には解散。敬虔なキリスト信者は宗教弾圧で数百万という規模で囚人にされたとソルジェニチンは「収容所列島」で書いている。

3 マリア・ポチカリョーワ(1889年~1920年)
 ロシア史上初の女性軍人といわれる。2月革命後は女性部隊を任された。2000人の志願兵で夫人決死隊を組織。1920年ボリシェヴィキに拘束され、「人民の敵」として銃殺された。

失われ、奪われたものを取り戻す作業つづく

 ソ連の反体制運動は、1960年代から本格化した。その淵源は20年間にわたるスターリン時代にあり、数え切れぬほどの弾圧と冤罪、死が分厚い澱となって社会全体に沈殿していた。
 失われ、奪われたものを取り戻す作業が、スターリン死後から徐々に始まり、今もなお継続されている(90頁)。地下出版(サミズダード)、サハロフ博士らによる反核・平和活動、ソ連の抑圧の歴史を発掘するメモリアル、ジャーナリストの射殺・・・・・・フェミニズムが今日広がる状況を説明し、本書の紹介を終える。
 ロシアは男のアルコール依存症と絡んで家庭内暴力DVがひどく、離婚率が高い。プーチンは2017年に刑法を改正し「暴力」の定義を変え、後遺症や障害が残らない限り犯罪とはみなされず、家族からの暴力は対象外に。警察に通報してもかけつけなくなった。コロナによるロックダウンで、更にDV暴力沙汰は跳ね上がった。
 被害女性を守る援助団体はシェルターに抱えきれないほどだった。しかし、他の人権団体同様、ウクライナ開戦以来、抑圧は強まり「外国の代理人」と指定され、その代表は国外へ出国を余儀なくされた。

THE YOUTH FRONT(青年戦線)

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