沖縄県内市町村の中国での戦争体験記を読む(110)

日本軍による戦争の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する宜野湾市の吉里さんは、25才で召集されて中国大陸へ派兵、37師団に所属して「大陸打通作戦」に従事、タイで降伏した経過を証言している。引用は原文通り、補足は〔 〕、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。

『宜野湾市史』第3巻 資料編2「市民の戦争体験記録」(1982年)

吉里真太郎
「大陸縦断作戦に参加」

 昭和十六(1941)年、私は二十三歳の頃大阪へ出稼ぎに行った。勤めた所は軍需工場であった。大阪へは夫婦で行ったが、私は二十五歳に大阪で召集を受け、昭和十八(1943)年五月に熊本16部隊に入隊した。そこは歩兵部隊で、十日間訓練を受けて、すぐに野戦で北支のエイガという所へ派遣され、そこに駐屯して、警備の任務に就いていた。
昭和十九(1944)年に北支を出発し、「大陸縦断作戦」に参加した。戦闘を展開しながら北支から中支、南支へ移動する大がかりな戦闘部隊であった。……
 当時の同一行動者には、宜野湾出身の渡慶次賢興さん(現在大謝名で肉屋経営)が同じ中隊にいて警備作戦に参加していた。桂林は最後の激戦地であったが、そこを攻略して、昭和二十(1945)年正月にベトナムの国境線に下っていった。
 私たちの大陸縦断作戦では戦闘行為による犠牲より、病気による死亡者が多かった。なにしろ戦争中のことであり、薬がなく病人の多くはマラリアと下痢で苦しめられ、死に追いやられた。……
 私たちの部隊には熊本、鹿児島、沖縄の三県出身者が多く、37師団=光部隊〔略称=冬、大陸打通作戦時は光〕と呼んでいた。この部隊は支那から南方の戦場でよく名が知られている。
 しかし、当時日本軍の戦況は悪化しており、ベトナムを通らなければマレーへ行けなかった。ベトナムはフランス領であり、日本軍はどうしてもここを突き進まねばならず、37師団では作戦を練って、昭和二十年三月十日の陸軍記念日に行動を起こすべく、山中でじっと待機した。……
 37師団には三つの部隊があって、私は「シジメ部隊」〔225連隊〕に所属していた。この部隊は隊長の名前をとって名付けられていた。その他に「岡村部隊」と「宮崎部隊」という強力な部隊があった。
 私はシジメ部隊の8中隊に配属されていた。ベトナムを突破してマレー半島へ南下しようと作戦を立てて進撃しているところ、昭和二十年八月、「引き返せ」という命令がきて、私たちの部隊は命令に従った。ところが岡村部隊は先に進撃を続けていたので、マレーで英国軍と戦闘をくり広げたが、不利になり全員捕虜になった。
 私たちはタイのバンコクに引き返したが、タイは中立国であったので、捕虜の扱いにならず、こちらから投降したので投降者となった。私たちは引き返した翌日、日本の敗戦を告げられ、バンコクで終戦を迎えた。その間、バンコクの山中に兵舎を設営して待機した。そこの地名は忘れたが、街から20キロ離れていた。私たちは英国軍の許可がなければここから出られず、山暮らしを始めた。もちろん兵器は英国軍に引き渡していたが、捕虜ではなかった。私たちの連隊長はシジメタケハル〔鎮目武治大佐〕と言い、フランス軍の裁判で絞首刑〔1951年、サイゴンにて〕にされ、上層部の師団長は〔東京裁判で〕戦犯になり、絞首刑は免れ懲役になったと聞いている。その人は佐藤ケンリョウ〔賢了、陸軍中将〕と言っていたが、後〔1956年〕に釈放になったようである。
 山中では土地を耕して芋などを栽培していた。……2000人の兵隊は復員の許可があるまで山中で待機していたが一日の行動は比較的自由であった。昭和二十一(1946)年五月、やっと復員の許可がおりて日本へ引き揚げた。……

沖縄報告2025年6月30日
 沖縄 沖本裕司

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