9条が世界に輝くとき (7)

たじま よしお

関東大震災の負の教訓から

 2023年6月15日の法務委員会での社民党の福島瑞穂議員の質問については非常に長いので一部を省略しました。(編集部)


 当時の国家権力中枢 が発出した流言飛語の火種──福島瑞穂さんが現代社会に問いかけているもの ──

 繰り返しになりますが「東京付近の震災を利用し、朝鮮人、各地に放火し、現に東京市内に爆弾を所持し、石油を注いで放火する者あり、既に東京の一部、戒厳令を施したるがゆえに、各地において内密に視察を加え、鮮人の行動に対しては厳重なる取締りかくされたし」。
 これは震災直後に内務省警保局長から各地方長官に宛てた電信文です。警察という機構は第二次世界大戦終了まで、中央では内務省警保局、地方では知事によって管理運営されていて、戦後の内務省解体によって新しい警察制度となっているのです。ですから今よりもはるかに国家権力の中枢にあったのです。その国家権力の中枢から「戒厳令をしいたから厳重注意しろ」と各地方長官に前記同文を打電しているのです。
 しかし一昨年2023年6月15日の福島瑞穂議員の質問に対しては、震災直後に内務省警保局長から各地方長官に宛てた電信文についてはその存在を認めながら、斎藤健国務大臣(当時)はそのことが朝鮮人大虐殺に繋がったことについては「調査した限りでは政府内においてその事実関係を把握することのできる記録が見当たらない、そういう見解だったと承知しておりまして、その件について法務大臣としてちょっとお答えをするのは困難だなというふうに思います」、と。

 一方、関東大震災の時の中国人虐殺についても同法務委員会において、福島瑞穂議員は冒頭で政府を追及しております。それを要約して記述しますが冒頭のものと読み比べながら共に真実に迫ってゆきたいと思います。中国人の虐殺については当時(一九二三年十一月)の山本権兵衛第二次内閣大正十三年五月二十七日に、松井慶四郎外務大臣より在中国芳沢謙吉公使宛てに送られた電報第三百四十七号というものがあります。
 それによると中国人謀殺に関しては、日本の国家責任は免れない。したがって日本政府は中国に20万円を支払うとの閣議決定し、大臣は花押を推しているのです。その文書は現在も外務省外交資料館が保有をしているのです。その文書は当時の中国の日本大使館の芳沢謙吉公使宛てに送られた電報第三百四十七号というものなのです。この電報第三百四十七号は芳沢謙吉公使を経て中国政府に伝えられたかどうかについては不明です。
 しかしその20万円はついぞ中国側に支払われることはなかったのです。それから90年後の「二〇一四年九月八日、関東大震災下、虐殺された中国受難者遺族訪日慰霊式代表団十八名が中国から日本に来ました」。
 そこで何が話し合われたかは不明ですが、両国の政府間で何らかの裏取引がなされたであろうと思います。(2023年6月15日
福島瑞穂議員法務委員会での質疑より)

掘り返されていた遺骨

 そして関東大震災から59年後の1982年9月1日に、荒川河川敷において遺骨の発掘作業が行われたことを語らないわけにはゆきません。その結果遺骨は発見されませんでした。当時「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」が結成され、発足と同時に参加した一人に西崎雅夫がいました。彼は「関東大震災朝鮮人虐殺の記録」の編著者です。遺骨が発見されなかった後日談として西崎は「情けない話なのだが」と前置きして次のように述べています。
 「試掘の後に、私たちは隠蔽の事実を報じた新聞記事を見つけたのです。すでに遺骨が掘り返されているとは知らず、私たちは穴を掘り続けたという訳なんですね」。ちなみに、日本政府にとって虐殺被害者の遺骨の「隠蔽」は既定路線だった。国立国会図書館憲政資料室所蔵の『大正十二年十二月関東地方震災ノ朝鮮二及ボシタル状況』(朝鮮総督府警務局)にはタイトル名に「極秘」と冠された「震災当時ニオケル不逞鮮人ノ行動及被殺鮮人ノ数之ニ対スル処置」なる文書が含まれる。
 同文書には殺害された朝鮮人の「処理」に関して、次のような指示が記されていた。「埋葬シタルモノハ速ニ火葬スルコト」「遺骨ハ内鮮人判明セザル様処置スルコト」「起訴セラレタル事件ニシテ、鮮人二被害アルモノハ速ニ其ノ遺骨ヲ不明ノ程度ニ始末スルコト」。政府・当局が隠蔽工作を指示し実行されたことによって朝鮮半島出身者の遺骨は見つかりませんでした。しかし、それまで表に出ることのなかった証言者が次々現れたのでした。

 ちょうどその頃(1982年)、横浜放送映画専門学院(現在の日本映画大学)に呉充功という青年が在籍していました。彼は卒業作品を制作するにあたって何をテーマにしたら良いか迷っていました。そんな時、たまたま吉村昭の『関東大震災』を読んだ友人がそれをテーマにするよう薦めてくれて、映像器具を抱えて試掘作業の現場へ出かけたのです。一方その当時、品川区の大井競馬場の近くでホルモン焼き店を経営していた曺仁承(チョインスン)なる人物がいました。
 「曺は震災直後、同胞14人と一緒に荒川駅近くで地元消防団員に捕えられた。縄で縛られ、逃げたら殺すぞと脅された。その後、寺島警察署に連行されることとなり、縄でつながれたまま四ツ木橋の脇を通った。その際に殺された同胞たちの姿を目撃している。〈橋は死体でいっぱいだった。土手にも、薪の山があるようにあちこち死体が積んであった〉(『関東大震災朝鮮人虐殺の記録』)橋の上では逃げようとする朝鮮人が袋叩きされていた。縄で縛られ、身動きできない曺も襲われた。足に鳶口が振り下ろされた。以来、曺は(終生)足を引きずって歩くことしかできなくなった」。
 「震災直後、寺島警察署にも約360人の朝鮮人が押し込められていた。ただし、警察署はけっして安全な場所ではなかった。警察署の外では自警団をはじめ、多くの者たちが『朝鮮人を出せ』と叫んでいた。曺をはじめ、皆が震えていた。このままでは署内に乱入した自警団員たちに殺されると思った」。そこで同胞らは警察署からの脱出を試みたのですが、そこで繰り広げた光景というものは「巡査が刀を抜いて、同胞たちの身体を足で踏みつけたまま突き刺し無惨にも虐殺しているのであった。只、警察の命令に従わず、逃げ出したからというだけで、この時8人もの人が殺され、多数の人が傷ついた」。このような数々の現場を目撃し、自らも傷ついた曺であったがそうしたことを人に語ることはありませんでした。そんな時、横浜放送映画専門学院(現在の日本映画大学)に呉充功という青年が在籍していて、試掘作業の現場で映像器具を抱え取材していたことは前にも述べましたが、そのとき在日朝鮮人の知り合いが、曺仁承の存在を呉充功に知らせてくれたのです。それで呉は試掘作業も終わりに近付いた日、品川区内のホルモン焼き店を訪ね、荒川河川敷で曺の姿を撮影させて欲しいと頼み込んだのです。曺はことわり続けました。
 「日本刀が振り下ろされる。鳶口がからだに突き刺さる。銃口が火を吹く。そして朝鮮人が倒れていく。それこそが曺の網膜に焼きついた虐殺の後継である」「曺にとってはむしろ記憶から消し去りたい場所であった」。
 「その理不尽を同じ朝鮮人として理解しながらも、呉は説得した。若さが無謀を後押しした。何度も頭を下げて懇願する呉に、結局、曺は根負けした」。呉充功監督のその記録映画は『隠された爪痕』という題名で公開されることになります。この映画の最終シーンは、ホルモン焼き屋のオヤジ曺仁承と同世代の浅岡重蔵との対談シーンでした。浅岡重蔵も当時まだ若く「虐殺を『朝鮮征伐』だと信じていた」のです。
 「殺されるところ見ていますとね、悪いことするんだから当然殺されちゃってしょうがないと思っていた」と当時を述懐しているのです。それまでの60年間に浅岡重蔵の身に何があったのでしょうか。「同映画のクライマックスは、その曺と、四ツ木橋で『朝鮮人を並べ、軍隊が機関銃でうち殺した』という目撃談を証言した浅岡重蔵との対面シーンだった」(安田浩一著「地震と虐殺」 66~71頁 中央公論新社)

 これら重たい現実に私たちはどう向き合ったら良いのでしょうか。刑事事件の捜査では「現場百遍」と言われていますが荒川河川敷周辺ではずいぶん多くの人々が現場調査を行ない、本を出版しています。安田浩一さんが「地震と虐殺」執筆にあたって参考文献としたのは54冊とその他多くの資料となっています。
 しかしそれらの著作を元に現場に立つならば「現場百遍」ではとても収まりそうもありません。しかし多くの仲間でことにあたり、それらの情報を寄せ合い、異なった個性の衝突が、世紀を超えた世界観を出現させるでしょう。歴史的に、幾重にも厚いヴェールにつつまれていた真実が、ひとびとの叡智によってその姿を現す多くの事例を、私たちは目にしています。
(2025年2月4日 )

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