読書案内「みんなのためのパレスチナ入門」
エリアス・サンバー著・杉村昌昭訳(平凡社新書 1000円+税)
パレスチナについての認識を一新するような内容
エリアス・サンバーは1947年、英領パレスチナ(現在のイスラエル)のハイファに生まれ、48年にシオニストが多くのパレスチナ人を追放してイスラエル国家の樹立を宣言した際に、一家はレバノンに移住した。69年にフランス・パリに移住、その後、パリ第7大学、米国プリンストン大学やレバノンの大学で歴史学を教え、詩人、映像作家としても知られている。81年にはパリで、ドゥルーズとガタリの支援でパレスチナ研究所の広報誌『パレスチナ研究誌』を創刊、現在も同誌の編集長である。
本書は2013年に刊行され(フランス語)、イスラエルによるガザ侵攻と「和平」をめぐる曲折の真っ只中の25年9月に増補改訂版(フランス語)が刊行された。本書はその日本語版で、今年5月に刊行されたばかりである。なぜこんなタイミングで「パレスチナ入門」か、とも思ったが、訳者が杉村昌昭さんなので、このタイミングでこそ読むべきだという理由があるのだろうと思って読み始めた。いつもの癖で『訳者あとがき』から目を通した。杉村さんと著者(サンバー)との因縁は間接的だが、1974年に遡るらしい。そういえばアラブ諸国とパレスチナ解放運動の関係における大きな転換点となった1975―6年のレバノン内戦について書かれたマジダ・サルマン、セリム・アカウイ著『レバノン内戦記 銃口よ敵は見えたか』(1977年、柘植書房刊)も杉村さんの訳だった。同書もアラブの解放に向けた連帯について、国際社会に向けて今日に通じる問いかけを発している。
本書の内容の紹介に入る前に、いきなり感想。本書はパレスチナ問題についての認識を一新するような内容だ。もちろん各章に簡潔に記述されているパレスチナ問題の歴史の多くは「入門」的な内容であって、活動家の間で知識としては共有されているかもしれない。それでもパレスチナの歴史の始まりからシオニズム運動、イスラエル建国に至る過程、中東戦争におけるアラブ民族主義の敗北とパレスチナ人アイデンティティーが形成されていく過程、PLOと武装闘争、「テロ」戦術に至る経過について歴史的連続性の中で理解しておくことは重要で、その多くを当事者として体験してきた著者の語りによって、知識が生きた歴史認識となり、教訓と未来への希望に満ちたものになる。
パレスチナのアイデンティティ、抵抗運動のリーダーと組織の確立
全体は対話形式になっており、16の章で構成される。「1 事の起こり」、「2 シオニズムの主要ターゲットとしてのパレスチナ」、「3 一九一七~一九四八年―イギリスの委任統治の曖昧性」では、旧約聖書の時代に遡るパレスチナの歴史、パレスチナに住む人々の生活と文化から説き起こし、「パレスチナ問題」と呼ばれる近・現代における抗争がイスラエル国家の建国から始まるのではなく、19世紀における英国による植民地統治とそれに対するアラブの民族独立・解放の闘いの継続であることを強調している。
「4 イスラエル国家の建国と一九四八年の二つの戦争」、「5 アメリカの歴史としてのイスラエル」、「6 ホロコーストの脅威と存在の否認」では、第2次世界大戦の戦後処理、アラブ民族主義の台頭、英国・米国に支援されたシオニストによるイスラエル建国の過程でユダヤ人問題、特にナチス・ドイツの迫害についての責任と贖罪が、何の罪もないパレスチナの人々に転化された背景、そのような歴史が忘却され、書き換えられてきたことに注意を喚起している。
「7 パレスチナのアイデンティティとは何か?(不在の試練にさらされるパレスチナのアイデンティティ)」と、「8 パレスチナの抵抗運動の組織化」、「9 PLO―『祖国を背負った者たち』の領土」は本書の核心部分だろうと思われる。イスラエルの建国と三次にわたる中東戦争で敗北する中で、アラブ民族運動の限界、アラブ諸国の裏切りに直面して、イスラエル占領地、東エルサレム、ヨルダン川西岸およびガザ地区に残った人々、難民として近隣国やヨーロッパに逃れたディアスポラたちを結びつけるパレスチナのアイデンティティが形成され、抵抗運動の中からパレスチナ独自のリーダーと組織が形成されていく過程が圧倒的な臨場感で記述されている。
転機となった第一次インティファーダとオスロ合意
「10 暴力とテロリズムの使用」では、弾圧や占領に対する抵抗は正当であり、暴力的な形を取ることもあるが、標的が軍隊ではなく市民である場合はテロリズムであり、いかなる大義でも正当化できないという立場を表明している。1972年のミュンヘン・オリンピックの際に「黒い10月」を名乗るパレスチナの戦闘員がイスラエルの選手を人質に取り、ドイツ警察と銃撃戦になった事件を想起しながら、そのような作戦が悲惨な結果をもたらし、結果的に「パレスチナ=テロ」という印象操作に手を貸してしまったと指摘している。
「11 一九六九年―土地分割の原則に向かって」から「12 一九八八年―歴史的妥協」、「13 オスロ合意(自治以上・国家以下)」は、パレスチナ側がイスラエル国家の存在を現実として受け入れ、当面はパレスチナ国家の建国を通じて「2国家共存」を目指していくという方向転換の中での議論を、転換の経過に即して記述している。1987年の(第一次)インティファーダと呼ばれる若者たちの自然発生的な闘いが大きな転機となった。著者(サンバー)は1988年からパレスチナ民族評議会メンバーとして米国ワシントンでの二国間交渉に参加し、93―96年には難民についての交渉において、パレスチナ代表団を統率した。まさにこの議論の渦中にいたのであり、93年のオスロ合意への期待は大きかったし、現在の時点でもこの当時の方向転換はパレスチナ解放に向けた重要な一歩だったと考えている。
「14 和平への障害」で著者はオスロ合意の事実上の崩壊の後の第二次インティファーダを「失敗だった」と断じている(武器を使用したことは誤りだった)。「第二次インティファーダの武装戦闘員は果てしない暴力の応酬を発動することになったのです。パレスチナの反逆者は力関係の不均衡を無視して、イスラエル軍と同じ土俵の上に立ったのです。[第2次]インティファーダは実質的に敗北に終わり、それまで見たことがないようなイスラエルによる併合活動の拡大に道を開くことになりました。それは『分離壁』の建設で頂点に達したのです」(136ページ)。
「二国家共存は今でも最良の選択肢」という信念
「15 二国家共存案は幻想か?」と「16 パレスチナの終焉?」は増補版の刊行にあたって補強されたものだと思われるが、著者は初版刊行当時からのパレスチナをめぐる状況の推移を「現在起きていることは、ファシスト潮流の牽引によってイスラエルが自滅の方向に向かっていること、そして占領された一民族が心ならずも新たな消滅に向かって、死に追いやられようとしていること、この2つの動きの速度競争であると言えるでしょう」(145ページ)と認識し、深まる焦燥感・無力感をこらえながら、それでも「二国家共存は紛争の最終解決ではないが、2つの隣接する国が平和的に共存する時期の到来を可能にするものであり、現実的な和平への唯一の道、歴史的和解への試金石だ」というオスロ合意当時の信念は揺らいでいない。イスラエルがどのように入植を拡大しようがパレスチナ人を完全に追放することは不可能であり、パレスチナがイスラエル国家を解体することも不可能である。二国家共存は双方の希望、つまり相互の承認、主権の尊重、平和的関係に根差しており、もっと根本的な解決に向けた扉を閉ざさないので、現状では最良の選択肢である。
サンバーの渾身のメッセージをどう受け止めるかは1人1人の読者に委ねられるが、もう一度、パレスチナ解放のための国際的な運動の陣形を作り直さなければならない。このタイミングだからこそ、これまでパレスチナ問題に関わってきたすべての人々が読むべき入門書だ。
付記 エリアス・サンバー著「パレスチナ 動乱の100年」
本書を読み終わった余韻で、同じ著者の「パレスチナ 動乱の100年」(1994年、日本語版は創元社、2002年)をアマゾンで購入し、じっくりと読んだ。19世紀におけるパレスチナ社会、独立運動とパレスチナ人としてのアイデンティティーの形成、アラブ(シリア・ヨルダン・パレスチナ・エジプト)の連帯、ナクバから67年戦争まで、そしてヨルダン、レバノンでの敗北、パレスチナの解体と忘却の危機を経て、絶望の底からインティファーダ、オスロ合意で蘇ってきた希望・・・貴重な写真や文献資料が満載で、いろいろな点でこれまでの理解と認識を更新することができた。オスロ合意を通じて和平と国家建設への道が開かれた(当時は南アフリカのアパルトヘイト体制が終焉したことで、期待が一層高まっていただろう)・・・その高揚感から一気に書き上げられたのだろう。この希望は無残に裏切られたが、パレスチナ人としての誇り、一体性(イスラエル占領地、ガザと西岸、多様な条件下で生きている避難民、在外パレスチナ人)、非宗派的・民主主義的パレスチナ国家の夢とそこに至る和解のプロセスの出発点としての二国家共存(国連決議や国際法、さまざまな合意の積み重ねをベースに)が最も現実的な解決法であるという確信は「みんなのためのパレスチナ入門」にも一段と力を込めて語られている。全くブレていない。植民地支配の歴史と覇権国や周辺国の思惑によって引き裂かれ、苦しめられてきた人々の悲しみ、希望、誇り・・・国際社会がそれにどう答えるのかを問い続けている。
同じ著者によって約20年の間隔を置いて発表されたこの2冊は、イスラエル・米国とイランとの戦争を通じて劇的に動き出した中東の軍事・地政学的再編と新しいラディカルな平和運動の広がりの中で、今、パレスチナ連帯を再考する上で、知っておくべき、そして心に刻んでおくべき生きた歴史である。
(小林秀史)

The KAKEHASHI
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