第17回全国大会決議―当面する情勢とわれわれの課題

日本革命的共産主義者同盟(JRCL)第17回全国大会決議

I 資本主義経済の「グローバリゼーション」と矛盾の深化、そして「社会主義再生」のいま

 (1)1980年代、当時のG5諸国による「プラザ合意」を契機にして加速した資本主義経済の「グローバリゼーション」の波は、ロシアや東欧の旧「労働者国家」圏や中国、ベトナム、さらには「第三世界」諸国を席巻し、全地球を資本の「自由な」活動圏にしていこうとするものである。
 それは国際的に「保護主義の撤廃」「規制緩和」「民営化」の論理によって、市場の自由な活動への障壁を取り去り、労働者人民の運動の対抗力を削ぎ落とすことによって労働者の諸権利と先進資本主義の「福祉国家」システムや、国家による「補助金」制度、「第三世界」の共同体的相互扶助関係を解体していく攻撃を本質的な内容としている。
 「ネオリベラリズム」(新自由主義)を特徴とするこの世界規模の資本主義的構造変革は「効率性」の名の下に「不採算」部門を切り捨て、失業を増大させ、零細経営農漁業や個人経営商工業を没落させる。それは先進資本主義諸国と「第三世界」を問わず、環境を破壊し、貧富の差をいっそう拡大し、最低生活線以下に何億もの民衆を追い込む。
 先進資本主義諸国では、リストラと国際的規模での産業再配置によって二桁失業率が常態化しており、中高年労働者、女性や青年に職のない状態が構造化している。一昨年のOECD報告、昨年のハリファックス・サミットで打ち出された「労働市場の柔軟化」や雇用についての「規制の緩和」とは、企業に解雇の自由を保証し、労働者の既得権を解体し、年金、休暇などの福祉支出の大幅な切り捨てを意味する。
 日本資本主義は今日、バブル崩壊不況からの脱出もなしえないまま先進資本主義諸国の中で最低の成長率にあえいでおり、また深刻な国家財政の危機と金融危機に見舞われている。この中で大多数の労働者は、リストラと労働強化の先兵となっている「連合」の労使一体化路線の深化の中で、有効な労働組合的抵抗の手段を奪われたまま「大失業時代」を迎えようとしているのである。
 ロシア、東欧の旧労働者国家圏では「ネオリベラリズム」による「ショック療法」(実際は「療法」なき「ショック政策」)の失敗が、もっとも典型的な形で現れている。「民営化」政策は、旧ノメンクラツーラ層の特権的地位確保競争を通じた官僚的・恣意的な方法で遂行され、生産力と生活水準の大幅な低下をもたらした。「市場の失敗」がもっとも典型的な形で表現されたこれら諸国では、労働者人民のやり場のない怒りが旧スターリニスト継承諸党を押し上げるという形をと っている。
 「第三世界」諸国の膨大な累積債務を背景に、世界銀行、IMFによって強制された「構造調整計画」は、飢餓をともなった絶対的貧困の構造をさらに強めている。多くの人々が生活基盤と自然環境を破壊されて居住地からの追放を余儀なくされており、医療・教育などの社会的支出はますます削減されている。「社会の崩壊」「人間としての生存それ自体の危機」が、こうした諸国を襲っている。
 こうした中で女性やマイノリティーへの差別がさらに拡大し、人種差別と出口のないエスニック的・宗教的紛争がエスカレートしているのである。
 
 (2)このような悲惨な構図が21世紀を前にした世界資本主義の現実となっている。ソ連・東欧の崩壊によって「資本主義の勝利・社会主義の敗北」を謳歌した、帝国主義支配階級の中からも制約なき「ネオリベラリズム的資本主義」の解決しえない問題群に対して懐疑の声が上がりはじめている。とりわけ世界資本主義システムが作りだした環境、人口、エネルギー、南北問題などまさに地球的規模の諸問題に関して、市場・効率万能のネオリベラリズムがその解決とはまったく逆方向の作用しかもたらさないことは明らかである。
 資本主義のイデオローグたちは、資本の「公正」な自由競争と、「環境」「人権」「多元的価値」「分権」「共生」などの、市民運動・社会運動が提出してきた諸原理・価値を調和させようとする。しかしそれはまったくの欺瞞にすぎない。
 むしろ資本主義は21世紀に向けた新しい長期的・持続的成長軌道を描きだせない中で、多国籍資本同士の相互浸透を深める一方、相互の争闘を強めながらブロック化に追いやられ、全体的な危機の局面を迎える下降線を描きだしている。それがもたらすものは、人種主義、女性やマイノリティーへの差別、権威主義、ネオ・ファシズムという新しい反動―反平等・反民主主義の流れである。
 このような攻撃に対する労働者人民の反撃は、フランスの公務員労働者のゼネスト状況に示されるように不可避的に拡大していく。また、ネオリベラリズムへの闘いは、メキシコのサパティスタが全世界に呼びかけているように、資本の専横に対して「民衆の尊厳」をかけた国際的な連携を求めている。
 しかし、それは自動的に「社会主義革命運動の再生」を意味するわけではない。ソ連・東欧「労働者国家」圏の瓦解を通じて決定的に促進された「社会主義への信頼性」の喪失は、ロシア革命以来の階級闘争の基本的構造のサイクルの終焉、その主体の危機と変質に根ざしたものであった。旧来の社会主義イデオロギーの危機は、この「主体の変質」と相乗作用の関係にある。
 今日、資本の専制に対する抵抗の運動は、国際的力関係によって帝国主義の強制する秩序への統合を突き破ることができないままでいる。パレスチナ和平、ボスニア和平、ラテンアメリカの左翼諸勢力内部の論争とそこに加えられる改良主義的圧力は、国際的なオルルタナティブ不在の表現である。
 エコロジー運動もフェミニズム運動も、第三世界の飢餓と貧困に対する闘いも、その多様でエネルギーに満ちた展開にもかかわらず、「資本主義に対するオルタナティブ」としての新しい社会主義のための努力とただちに結び付くことはない。市場万能型のネオリベラリズムに対する批判と抵抗が、「環境」や「共生」を価値の要素に取り込もうとする資本主義の国際戦略の中に組み入れられるというベクトルさえ働いている。
 ここからして社会主義革命運動の再生は、国際的にいっても相対的に長期にわたる主体の再編成と、試行錯誤をともなった運動経験の蓄積過程を必要とする。われわれは全世界の第四インターナショナルの同志とともに、革命運動の歴史的経験と理論をこの過程で検証しつつ、多元的で民主主義的な主体の再編成の時期をくぐりぬけなければならない。しかもわれわれは、現実の運動への追随ではなく、意識的な国際主義的社会主義者として独立した立場でこの時代に立ち向かわなければならないのである。
 問われていることは、現実の民主主義的な抵抗の運動と社会主義的なオルタナティブとの間に横たわる距離の自覚であり、その運動に内在しながら反資本主義的解決に向けて頑強に闘い抜こうとする姿勢である。

II 「総与党化」構造の進展と新しい政治潮流

1 「平和・市民」の敗北が突き出したもの

 (1)昨年4月の第16回大会決議の中で、われわれは、社会主義革命運動の一サイクルが終焉し、自民党の分裂、社会党の政権参加を大きな転換点とした「総与党化」状況の中で、分散化した個々の抵抗運動が政治的には「平和主義的リベラル民主主義」と規定される質で展開されざるを得ないと捉えた。そうしてわれわれはこうした運動に内在しつつ、それを「よりよい資本主義」の方向に意識的に推し進めようとする傾向を批判しながら、運動のラディカル化をはかるとともに、国政の場においても「総保守化」への「対抗的政治勢力」を「護憲派」や市民運動、地域運動、左派労働組合運動などを横断的に結集した「選挙ブロック」として登場させる必要性を主張した。
 そこではこの「対抗的政治勢力」も「平和主義的リベラル民主主義」という政治性格をもって形成されざるをえないことも含意されていた。
 具体的には「社会主義政治連合」に参加する諸党派をふくむ「市民の政治」全国ネットが進めていた「新しい市民的政治勢力の形成」あるいは「市民派と護憲派の合流」構想を基盤に「公選法上の政党」を形成し、国会に議席を獲得する闘いを九五年参院選の中で実現しようとした。
 93年の細川連立政権成立直後から始められ、小選挙区制反対運動を経て、94年から具体化していた「護憲派と市民派の合流」のための試みは、社会党を出自とする「護憲派」自体の分裂等々の紆余曲折を経て、旧「護憲リベラル」の議員を前面に立てた「平和・市民」の選挙戦として表現された。一部は「平和・市民」形成の努力から離れて、「護憲・みどり・農の連帯」の分裂選挙を行った。
 しかし、参院選挙の結果は東京選挙区で田英夫氏の当選をかちとったものの、比例区では目標としていた2%を突破して議席を獲得することができなかったばかりか、1%をも突破することができず、「平和・市民」の選挙運動は惨敗に帰結した。
 
 (2)「平和・市民」の敗北は、参院選直前に行われた統一地方選での青島幸男、横山ノック両候補の当選に示された「無党派現象」に拝脆した抽象的な「市民の政治」「市民の政党」というキャッチフレーズが「総与党化状況」や「既成政党離れ」に切り込むものとはなりえなかったことを示した。
 東京では、92年の反PKO闘争の後を受けた内田雅敏選挙を担った市民運動勢力や全労協の左派労組勢力を「平和・市民」の運動に十分に結集することもできなかった。「平和・市民」の敗北は、残った議員グループもいまや「総与党化」の枠組みの中での“リベラル勢力”形成の展望、つまり「保守リベラル」勢力の一翼に自ら位置するしかない、という現実に端的に示されている。「平和・市民」は次の国政選挙を「平和・市民」として取り組むことはできず、公選法上の政党としては存在しえないことを確認して、昨年末ひとまず解散することになった。
 「平和・市民」の敗北はまた、国政の場に「対抗的政治勢力」を登場させるためには地域運動、市民運動、左派労働組合の基盤がきわめて未熟であることを端的に明らかにした。それは今日の大衆運動の後退・分散状況の反映でもある。それは、十六回大会が指摘した「平和主義的リベラル民主主義」という抵抗運動の政治性格のレベルのそのままの延長線上に、批判勢力を国政の場に「総与党化」状況に切り込む現実的選択肢として登場させることがきわめて困難であることを示すものともなった。
 軍事・政治的な「国際貢献」「危機管理」、ネオ・リベラル的な「自由化」と「規制緩和」「市場原理」を大枠的な理念として承認する「総与党化」構造のなかで徐々に形成される新しい支配のシステムに対して、切り捨てられる諸階層の利害を歪んだ形ではあれ一定程度反映した対立が生み出されることは確実である。こうした「総与党化」の下での新しい支配システムも不安定なものにならざるをえない。
 しかしその対立構造が「権威主義」対「リベラル民主主義」という形をとるのかどうかは不確定である。日本での社会民主主義的伝統と基盤の弱体さ、「連合」指導部が大独占の労務部としてしか機能しておらず、資本からの組合主義的独立すら体現しえないことは、リベラル民主主義の基盤の脆弱さを物語っている。
 ここでは市場万能、競争社会原理という「ネオリベラル」の原理に対して、市場原理の意識的な社会的規制によって「福祉国家」をめざすという旧来の西欧的な社会民主主義路線による対抗関係の形成すらきわめて困難なものになっている。西欧的な社民路線そのものが、ネオリベラリズムに呑み込まれ、「福祉国家」解体の攻撃に追随している現状ではなおさらのことである。

2 橋本連立政権と議会政治のいっそうの形骸化―住専、HIV

 (1)1994年6月に成立した村山自社さ連立政権は、当時の新生党小沢指導部の強権的手法に対して「ハト派・リベラル」の顔を持って登場した。しかしそれが「よりまし」政権という一部の期待にもかかわらず「小沢的」なネオリベラリズムによる「改革・開放」路線、権威主義的「危機管理」路線への政治的アンチテーゼを持っていたわけではないことは明らかであった。
 村山連立政権は、成長の果実の配分によって国民諸階層の利害を調整するという「55年体制」的な利権構造がすでに限界に到達している中で、それにしがみつきつつ経済的・政治的・軍事的な「国際化」に受動的・調整的に対応し、既成事実の積み重ねで「改革」課題を乗り切っていこうとする、旧来の「保守本流」的な性格を持っていた。
 村山社会党(当時)首班政権が当初の予測に反して一年半にわたって延命する結果となったのは、「政治的リーダーシップの不在」という批判にもかかわらず、自民・新進両党をつらぬいて存在する旧来の利権構造への依存関係に由来する、「改革」テンポとその順位をめぐる対立などによって強力な倒閣ヘゲモニーが生み出されなかったことによる。村山の政権投げ出しは、「住専処理」問題と在沖縄米軍基地への沖縄民衆の怒りの爆発が大田知事を突き動かして「代理署名拒否」に向かわせ、自ら大田知事を提訴せざるをえなかったことを起因としている。
 (2)連立政権内の「たらいまわし」によって1月11日に成立した橋本政権は、与党三党の「政策合意」によって成立したとはいえ、実際上の「自民党単独政権」としての色彩を強めるものとならざるをえなかった。橋本本人が「タカ派」のバックボーンである日本遺族会会長をつとめ、旧田中派の金権腐敗の中で育ってきたというもっとも「自民党的」な存在であること、また中曾根康弘の強力な後押しによって「保保連合」論者の梶山清六を官房長官に据えたことなどによってそれは示されている。
 橋本政権の誕生とともに、連立を構成する社会(現社民)、さきがけ両党は「独自色を強める」とされていたが、実際のところは「住専処理」や沖縄問題への対応に見られるように「政権維持」を一義的な優先課題とせざるをえないことは明白である。小選挙区制度の枠組みと、今日のブルジョア国家体制の下での政策選択の幅の狭さがこの二党を強く縛り、「第三極」としての存在を不可能ならしめているのである。
 
 (3)橋本政権が最初に直面することになった「住専処理」問題は、たんにバブル期の「後遺症」であるということにとどまらず、より根本的には二百数十兆円という天文学的な額にまで膨れ上がった国債残高(国家債務)を背景に武村蔵相(当時)が発した「財政危機宣言」や、銀行やノンバンクが抱える百兆円をはるかに超える不良債券に示される「金融危機」の問題である。
 相次ぐ公定歩合の引き下げなどによる金融機関救済措置によって問題を先送りにしてきた方法が決定的に行き詰まり、「金融恐慌」の可能性に支配階級が深刻な危機感を抱いたときにはじめて、まったく官僚的な方法で「公的資金投入」による処理策が発表された。 「住専処理」に対する国民的総反発は、「総与党化」状況の中で多くの人々が抱いてきた「出口のない不満」の表現である。この反発は、土地家屋、証券、預金などの資産価値の保全への危機感、「高齢化社会」での年金受給に対する不安、企業のリストラ、終身雇用制の解体による失業の脅威という多くの人々が抱いている現実生活防衛への危機意識に根を持ったものでもある。
 震災被災者への被害補償を拒否しつつ、「住専処理」には税金を投入するこの不公正・不平等なあり方に対する国民的批判は、財政危機、金融危機と生活危機に対する根本的な解決の方向を提示されないまま、既得権防衛に汲々とする官僚制への怒りと「議会政治」そのものへの諦念をさらに促進しつつある。
 またHIV訴訟問題でも、厚生省と製薬業界・学界とのもたれあいと癒着が大量の血友病患者の死をもたらしたことへの怒りが表現され、こうしたもたれあい構造を隠蔽してきた議会政治の「無力」さへの感覚が増幅されている。昨年の参院選で村山政権への不満票を集めて前進した新進党への「期待感」も急速にしぼんでしまった。
 しかし、こうした既成の政党政治、官僚制に対する全般的批判は、全体として見た場合、国民の国政への直接的「参加」の意識を促進しているわけではない。共産党を除く「総与党化」の現実は、議会政治の「ゲーム」の虚構性の意識をさらに人々の間に強めており、マスコミによって提供される「情報」の「消費者」にとどまる構造をもたらしている。
 かくして今日の議会政治、官僚政治への不満と批判は、容易に「強力な政府」、「実行力のある政治」、「権威ある国家」を求める気運を醸成させる土壌ともなるものである。震災、オウムによって促進された社会不安は、デマゴギー的な「危機管理」論を背景に情報の独占と操作による権威主義的国家統治を招来させる可能性を秘めたものになっている。
 同時に、「グローバル化」する政治と経済は、世界的に旧来の「国民国家」の枠組みの下での諸政策の遂行を困難にしているのであり、それが「官僚政治」の対応能力をますます低下させていることにも注目しなければならない。それへの危機感にかられた焦燥が、一方でネオファシズムや権威主義への指向を増大させているのであるが、他方では「国民国家体制」の行き詰まりという認識を背景にして「国家」を相対化する「地方主権」や「自治」の主張を促している。
 われわれはもちろん、国家の支配統合力の限界をおしひろげる立場からも、労働者人民の「政治」に対する関心を強めて社会的自治能力を確立していく立場からも、こうした「地方主権」や「自治権」の確立に向かおうとする市民・住民、自治体の運動、さらには従来国家の専権的事項とされていた外交等の諸領域にも自治体独自の関与を進めていこうとする運動を支持する。
 しかしそのことは国家に対する独自の闘いを回避したもっぱら「地域からの」運動に集中しようとすることを意味するわけではない。ましてそれを「権力をめざさない」運動として戦略化する傾向に対しては、明確に批判していかなければならない。
 全国的な政治の環に対する統一した闘いの構造がますます弱体化している現在、われわれは大衆運動においても全国的な政治的な連携を新しい形態で復活することに意識的な努力を注ぐ必要がある。

3 「第三極」論破綻の意味と「新しい政治勢力」の現在

 (1)社民党に名を変更した社会党の「民主リベラル新党」づくりの方針は2年間を経た今日も挫折したままである。「さきがけ」との合流による新党形成の展望は当面のところ存在していない。次回の衆院選後まで「新党」構想は持ち越しになっており、かつ小選挙区の下での初の衆院選で自民、新進両「二大」政党の狭間に立つ社民、さきがけ両党の大幅な後退が予想されている今日では、その構想事態が雲散霧消する可能性もある。
 マスコミは「政権担当能力のあるもう一つの政治潮流を生み出すために」社民・さきがけ両党に対して、新しい対立軸を持った新党の早期形成を促している。しかし「政権交代可能な二大政党への政界再編」をあおってきた80年代後半以来の「政治改革」論議が、ソ連・東欧ブロックの崩壊による「社会主義」イデオロギーの正統性喪失を契機として「総与党化」の構造を作りだし、小選挙区の成立へといたった今日、その枠組みを前提にしたところで「もう一つの政治潮流」を第三極として形成する根拠が失われていると見るべきである。安保の堅持、「規制緩和」と日本経済の「構造変革」、リストラ、危機管理――これらの点で共産党を除く各政党は基本的に同一の立場をとっている。
 もちろん、小沢・新進党の「普通の国家」路線が、最も鮮明な形で日米の帝国主義的パートナーシップに基づく軍事大国化・国連安保理常任理事国化と改憲の道を歩んでいることは確かであり、こうした「普通の国家」構想に対する反発は、各党内部に根深く存在している。しかし、現在日本国家が直面している危機に対する処方箋を、小沢的路線と本質的に違ったところで構想しようとする政治勢力を「総与党化」構造、すなわちマスコミの言う「政権担当能力」を前提としたところからひねりだすことは不可能なのである。
 小選挙区制によって最初に行われる次期総選挙は社民・さきがけを保守「二極」の渦に巻き込み、自民、新進の双方をもつらぬく新しい政党再編に「新党」が飲み込まれていく事態を作りだすことになるだろう。

 (2)今日、社民、さきがけの「第三極」形成のパートナーとして、地域運動や市民運動の中からも、そこになんらかの政治的展望を見出そうとする傾向が存在する。「平和・市民」の敗北は、そうした分化をさらに加速することになるだろう。前北海道知事の横路孝弘や「市民リーグ」を結成した海江田万里衆院議員などは、地方議員や政治グループの全国的連絡機関としての「Jネット」を発足させており、そこに「東京市民21」や神奈川生活クラブ生協を母体とする「神奈川ネット」も加わっている。
 またNGOグループの中からも、そうした「第三極」をめざす政治傾向に向かって政策提言を行うことに展望を見いだそうという動きも存在する。
 現に、独立した大衆運動の力が大きく低下し、資本主義に代わる根本的なオルタナティブが存在していない現状の中で、そうした流れの形成には一定の必然性がある。「保守二大政党」の下への収斂の構造に対して、それ以外の「現実的選択肢」が必要なのだと「第三極」を主張する人々は語る。しかし、それが「保守リベラル」を「市民的」に補完する構造に入っていくしかないという現実にあることをわれわれは明確にさせる必要がある。

 (3)社会党の社民党への党名変更を契機に、旧社会党の「護憲」派議員の一部は「新社会党」を結成し、社会党の路線変更を批判して別党の道を選択した。社会主義協会はこの分裂に対して統一した対応をとれず、協会員が両方の党に所属することを追認している。
 「新社会党」は、6府県で地方本部を確立し、五月末までには準備会をふくめて23の都道府県に組織を作るとしているが、その組織実態は旧社会党の古い体質のままであり、労働者・市民運動の新しいエネルギーを吸収する可能性は少ない。われわれはこの「新社会党」が共産党を除く「総与党化」状況に抵抗する一つの結集軸になりうるとは考えられない。反戦平和運動などの領域における共同や、国政選挙や地方選挙において、独自の立場から新社会党への「選挙協力」を行うことはあるにしても、「新社会党」を中心にすえた「政治勢力」づくりを展望することはできないのである。
 
 (4)日本共産党は、今日、各種の選挙において「総与党化」構造への唯一の批判勢力として注目を集めつつある。京都市長選や参院岐阜補欠選挙での健闘はマスコミにも大いに注目された。共産党は「無党派との共同」を押し出して、「総与党化」への批判票を獲得する努力を続けている。
 部分的には共産党系諸団体との大衆運動上の共同の可能性は広がっていくだろう。しかしそれが共産党のセクト主義を掘り崩していくためには、非共産党系左翼の独自の運動的・政治的力の拡大が不可欠なのである。日本共産党はブルジョア議会主義への固守と「資本主義を打倒しない」路線をますます純化させ、そこから踏み出すことを承認しようとはしない。彼らは「アメリカに従属しない」日本資本主義の発展を防衛しようとする立場をとっているのである。社会的・経済的危機のいっそうの深刻化は、共産党のこうした綱領的立場の矛盾をさらに拡大することになる。
 同時に、われわれは「社会主義の崩壊」が共産党にもたらしたイデオロギー的統制力の弛緩の結果として、主要に知識人党員や学生党員の一部の間に、トロツキーの思想の再検討をはじめとして相対的に「自由」な理論探究の気運が生じていることにも注目する必要がある。しかし、それがこの党の自己絶対的・官僚的な壁を溶解させるであろうと幻想を持つことはできない。われわれは、非共産党系左翼の間に根強い「反日共」体質の克服を進めつつ、共産党内の新しい理論的・政治的可能性を発展させることを自らの課題としなければならない。
 
 (5)「平和・市民」の敗北で示された「市民派政治勢力」結集の中途挫折は、しかしただちに政治潮流としての「反資本主義左派」の独自的結集を可能にさせるものではない。われわれが「社会主義イデオロギーの信頼性」の喪失と、ロシア革命以来の階級闘争サイクルの終焉として描き、抵抗闘争の構造が当面「平和主義的リベラル民主主義」という表現形態をとらざるをえないとしてきた関係は変化していないし、むしろ深化しさえしているからである。
 大衆運動のあり方は、ますます「自治・分権・参加」という理念をとって、旧来の「批判・抵抗」型運動の批判へと向かうだろう。「批判・抵抗」型運動は消滅することはないが、当面、周縁化・孤立化の傾向が進展するだろう。それはまた「批判・抵抗」運動への大きな圧力ともなっていく。われわれは、この「自治・参加・提言」型の運動の中に含まれている新しい積極的要素をつかみとるとともに、大衆運動の「旧構造」にまとわりついている自己満足性や閉鎖性などの欠陥の克服に共に努力していく必要がある。
 しかし、それは「参加・提言」型運動が、今日の政治的力関係とイデオロギー状況の中で直面せざるをえない「人間の顔をした資本主義、よりまし資本主義」を戦略的に選択しようとする誘惑との意識的な闘争を不可欠の任務としてわれわれにつきつける。
 「政治勢力」としての形成という面から言えば、「第三極」の名による「保守リベラル」への屈服に与しない地域的・全国的政治潮流形成の模索をともに推し進める中から新しい挑戦を持続していかなければならない。たとえば「市民新党にいがた」は、きたる衆院選の小選挙区に候補者を擁立することをすでに決定している。いまだ全国的に国政選挙を統一した立場から闘う力量は、全国の左派や市民運動グループの中に蓄積されていないとはいえ、われわれはこうした挑戦を重視していく。また九七年の東京都議選や九八年の参院選に対しても、地域的なレベルで構想されているさまざまな努力をわれわれはともに担っていく必要がある。その際、「土井社会党」ブームから「青島・ノック現象」にまで共通してきた、「既成のもの」に対する人々の不満の表現を主体的にどう評価するのかの視点を欠いたまま状況追随的にかかわっていく姿勢の克服が問われることになる。
 「新しい政治潮流」を姿あらしめるためには、反安保・沖縄、反核・反原発などの分野で開始されている大衆運動の新しい可能性との結びつきが最優先的に求められているのであり、左派はその中で必要なイニシアティブを発揮していかなければならない。左翼の存在基盤がますます風化しつつある今日、政治主張と運動展開の両面において、われわれはその基盤を再構築していくためにも大衆運動の組織者としての役割を、内ゲバ派の破滅的役割から大衆運動を防衛しつつ果たしていかなければならないのである。

III 「総与党化」に抗する大衆運動の現状とわが同盟の任務

 (1)旧来の「社会主義」や「階級闘争」概念の信頼性の喪失と、共産党を除く「総与党化」状況の中での大衆運動は、左派労組をふくむ労働者運動全体の活動力の低下と、HIV訴訟支援運動に示されたように部分的には青年・学生の新しい層の結集をともないながら、「民主主義」を求める指向性をもって展開されている。
 それは既存の政治構造全体に不信と批判を持ちながら、震災ボランティアにも見られるように、「国政」それ自体には距離を置きつつも社会への「参加」と「発言」を求める意識が作りだされはじめていることを物語っている。厚生省と製薬資本の「謝罪」をかちとったHIV訴訟の勝利は、この間の運動の中での特筆するに足る成果であった。
 当面、大衆運動は個々の課題での発展と停滞を繰り返しながら、政治的・政党的イニシアチブの不在のままに、いっそう多様な分化を遂げていくことになる。そしてその政治意識の性格はわれわれが繰り返し述べてきたように、「平和主義的リベラル民主主義」、あるいはより「公正で平等な資本主義」を求めるものである。
 それは状況のストレートな反映であり、われわれはこの大衆運動全体の政治性格と構造から別個のところで、「左翼的」運動空間を形成することができないのは言うまでもないことである。しかしその上で、われわれに求められていることは、具体的な課題に即した大衆運動の組織化を「社会主義オルタナティブ」を求める独立した政治意識の下に一貫して推進し、「民主主義的」要求のラディカルな発展につとめていくことである。問題を国際主義的な展望の下に取り上げていくことがその基礎となる。

 (2)――具体的な大衆運動に即して――(a 住専問題、b 沖縄闘争……この項は採択項目から外して、さらに討論を継続することになった)。

 (3)現在の大衆運動は、「戦後革新」派と総評労働者運動が終焉し、かつ三里塚闘争を頂点とした一九七〇年代後半のわれわれの闘いを大きな土台にした非内ゲバ派の自立的大衆運動の構造が崩壊した中で展開されている。それは活動家の中で蓄積されてきた政治的価値観や「左翼的常識」がもはや共通の土台とはならないことを意味する。
 しかしそのことは、階級闘争の経験の教訓化と新しい時代の性格の解明の上にたって、マルクス主義左派が不断に自らを脱皮させながら、「清算主義」におちいることなくあらゆる面でイニシアティブを発揮する必要性を少しも減じるものではない。むしろ国際的にもその重要性はいっそう増大しているというべきである。
 大衆運動の意識的組織化、活動家の獲得、独自の政治的視点と方針の提起を通じて、左翼の存在基盤を自ら作り上げていくことを、われわれは自覚的な課題としなければならない。その力量の弱体化にもかかわらず、わが同盟が引き受けなければならない責任はいっそう大きくなっている。とりわけ、大衆運動、機関紙、学習会などを通じた青年・学生の獲得が決定的な重要性を持っている。
 われわれは、21世紀に向けたいまだ不明確な転換期の一時代を、第四インターナショナルの同志たちとともに「社会主義革命運動の再生」に向けた共通の意識性を堅持しながら、着実な歩みで切り開いていかなければならない。

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