討論ノート 現在の中国社会をどのように理解するのか (上)
中国革命と共産党、社会の歴史的展開から考える
大森敏三
この討論ノートは、8月に第四インターナショナル日本支部協議会の呼びかけで開かれた「帝国主義論再検討学習討論会 東アジアにおける中国帝国主義について考える」での報告に加筆したものである。
今年2月に開催された第四インターナショナル国際委員会では、「帝国主義論の再検討」が議題として取り上げられ、報告・討論がおこなわれた。国際委員会でこの問題が改めて議題となったのは、①マルクス主義における帝国主義概念は、もともとは「資本主義の最高段階としての帝国主義」(レーニン)という経済的側面からの分析に由来するが、2つの世界大戦を経る中で次第に軍事的側面が強調されるようになったものの、それでは中国帝国主義などを理解するのに不十分であり、さらにトランプの登場、極右や新ファシズムの台頭によって帝国主義が新たな局面に入ったこと、②アメリカ帝国主義に反対する中国、ロシアはわれわれの「味方」ないしは「友人」であるという「陣営主義」的視点が、各国で若い世代を中心に広がりを見せている中で、中国帝国主義、ロシア帝国主義を帝国主義概念の見直しの中で明確に位置付ける必要が生じたこと、の2点が要因となっていた。討論では日本支部からも発言した(注1)。
この議論を受けて、日本支部としても「帝国主義論再検討」の議論、とりわけ中国についての分析が、東アジアの組織としての私たちの任務でもあると確認してきた。その中間的なまとめとして、先述の学習討論会も設定されたものである。
資本主義国・帝国主義国としての中国
私たちの組織的討論の前提としての、とりあえずの私たちの共通認識は、「中国は資本主義である」「中国は帝国主義的な(対外)政策を遂行している」の2点だった。この1点目の「中国は資本主義である」ことの議論の基礎としては、私たちが2004年に発行したパンフレット『沸騰する「資本主義中国」』の諸論文があった(注2)。
そして、国際委員会での報告では、帝国主義について、軍事・外交的側面からだけでなく、あくまで経済的側面、つまりレーニンが定義したように20世紀における資本主義のあり方である「資本主義の最高段階としての帝国主義」に立ち戻るべきということが強調された。その意味では、資本主義大国はおしなべて帝国主義と位置付けられ、中国もその例外ではない。
中国革命の反資本主義的方向への進化
現在の中国資本主義の成立プロセスを考える際に留意しなければならないことが2点ある。それは、①1949年の中国革命の勝利以降の中国社会をどのように理解するのか、②中国社会を実際に支配している中国共産党の独自的な性格と中国人民との関係をどのように考えるか、である。
1949年、中国共産党は蒋介石の国民党軍を中国本土から追放し、毛沢東が天安門の上から中華人民共和国の成立を宣言した。しかし、毛沢東自身の位置付けではこの革命は「新民主主義革命」(進歩的な民族ブルジョワジーとの統一戦線による)とされていた。また、スターリンは日本帝国主義が敗北した1945年の段階でも、蒋介石の国民党政府と連携していて、中国革命はあくまで民主主義革命でり、中国共産党は国民党との「国共合作」の枠内にいるべきだと考えていた。
「スターリンとその追随者は、社会主義は「当面は計画に入っておらず、将来のはっきりしない展望であり」、彼らの目的は「ソ連をモデルとした国家建設ではなく、混合経済の建設である」と宣言していた」。(ミシェル・パブロ伝記『背広を着た革命家』(未邦訳)による)
しかし、当時、第四インターナショナルを主導していたミシェル・パブロは、中国革命がそれ自身のダイナミズムによって、反資本主義的方向に向かうことを予測していた。「中国共産党は(略)、勝利を勝ち取った農民反乱に基礎を置き、モスクワから独立して権力の座につき、勝利後に国内ブルジョアジーを打ち破り、平等主義的な農地改革を実施し、産業を国有化し、国有経済構築に着手しようとしている」。(同上書)
中国革命の反資本主義的な方向への進化を決定的なものとしたのは、1950年の朝鮮戦争の勃発とそれへの「中国人民義勇軍」による介入だった。朝鮮半島においてアメリカ帝国主義と直接対峙することになったことで、中国共産党は名目上においてもブルジョワジーとの統一戦線を解消し、かつての支配階級である都市のブルジョワジーおよび農村の土豪地主の解体へと向かったのである。それは同時に、官僚化と権威主義的体制の強化(毛沢東個人崇拝)、左派を含むすべての「反対派」の粉砕(1952年の中国トロツキストの一斉逮捕、1957年の「反右派闘争」など)をともなうプロセスでもあった。ここで明らかなのは、中国革命によって達成された、独立、工業化、独自の技術開発、高い平均的教育水準などが存在しなければ、今日の資本主義中国は存在しなかったということである。
中国共産党の独自の毛沢東主義的性格
中国共産党は、1920年代にコミンテルンの指示のもと、第1次「国共合作」のもとで大都市での労働者階級の組織化に注力していたが、1927年4月の上海クーデターを頂点とする蒋介石による反革命的弾圧によって都市部での拠点を失った。そして、その後コミンテルンが極左冒険主義へと転じたことで、農村部でのいくつかの冒険的蜂起(1927年の南昌蜂起、秋収蜂起など)をおこなったが、いずれも失敗し、毛沢東らは井崗山への後退戦を余儀なくされた。これらの敗北がコミンテルンの指示によるものだったため、毛沢東らはモスクワ追従派との激しい分派闘争を経て(その過程では、中華ソビエト根拠地の放棄と「大長征」による中国南部から陝西省への転戦も生じた)、スターリンとコミンテルンに対する相対的に独自な立場を確立していった。それは当初は面従腹背の形をとったが、中国革命の勝利以降には公然たる対立(中ソ対立)へと発展した。
しかし、モスクワ追従派との分派闘争を戦う上で、毛沢東は改めてマルクス主義の研究に励んだが、その際に彼が依拠したのはスターリンの諸著作だったことは、ある意味では歴史の皮肉と言えるかもしれない。
改革開放以前の中国社会の階級的性格
毛沢東は革命以前の中国社会を「半封建・半植民地」社会と規定し、それを打ち破る革命を志向していた以上、中国革命の反帝国主義的性格は建前上も実質的にも明らかだった。そして、パブロが予測したように、中国革命は反資本主義的方向への進化を遂げた。しかし、その結果成立した中国の新たな社会体制は決して社会主義とは言えなかった。何よりも重要な要素である社会主義的民主主義、労働者民主主義が存在していなかった。いわば支配的な生産様式を持たない過渡期社会と言えるようなものだった。しかし、それは社会主義へと「前進する」過渡期社会ではなかった。なぜなら、この「前進」を導くような、下からのイニシアチブによるメカニズムは存在しなかったからである。中国共産党は、1920年代後半の敗北以降、再び都市の労働者階級に根を下ろしたが、とりわけ国有企業の労働者階級は政治的には共産党に従属していたため、そうした原動力にはなり得なかったのだ。
大躍進の失敗と文化大革命
その一方で、毛沢東は、彼の考えていた「社会主義」に向かって冒険的な挑戦を試みた。それが1958年に開始された「大躍進」政策である。「大躍進」は、工業生産と農業生産の爆発的な増産によって社会主義社会を短期間で実現しようとするものだったが、その現実を無視した主観的・恣意的政策(そのことを批判した彭徳懐は粛清された)は致命的失敗という結果に終わった。その後、劉少奇・鄧小平らによって「調整」政策が実行されることになった。
1966年に始まった文化大革命は、その名称とは異なり、「資本主義の道を歩む実権派」(走資派)=劉少奇、鄧小平に代表される実務派党官僚からの「奪権闘争」だった。毛沢東は、その手段として若者たちに紅衛兵として「革命」に参加するよう促した。この毛沢東による大衆動員の呼びかけは、いわばパンドラの箱を開けることになり、文化大革命の中で中国共産党、政府機構、行政の崩壊を招くこととなった。秩序回復を迫られた毛沢東は、自らの支持基盤であった労働者階級や紅衛兵に対して、秩序を冷酷に回復させるために唯一残された人民解放軍を動員して、その急進的な部分への「血の弾圧」をさえ強行した。
このことは、中国共産党と大衆との関係の崩壊を招いた。つまり、中国共産党は、百花斉放と反右派闘争で知識層を失い、大躍進政策の失敗で農民層からの支持を失い、そして文化大革命の最終局面で若者・労働者階級との結びつきを失った。すなわち、文化大革命によって、中国革命の結果としてあった中国共産党と中国人民との関係が決定的に崩壊し、そのことが中国共産党の官僚化プロセスを加速していくこととなった。そして、官僚的反革命の完成へと導き、ブルジョワ反革命のための政治的前提条件を作り出したのである。毛沢東の死と四人組の失脚(1976年)、および1977年の鄧小平の三度目の復権はそのことを象徴的に示すものだった。
鄧小平の復権とブルジョワ反革命の開始
鄧小平の三度目の復権は、中国共産党と中国経済の再建を至上命題とするものだった。党再建という点では、鄧小平は党のあらゆるレベルにおいて一定程度の集団指導制を導入した。これは、彼自身の文化大革命における体験(「資本主義の道を歩むもう一人の実権派」として紅衛兵による集中的攻撃の対象となった)を基礎にしたもので、彼は個人崇拝(毛沢東崇拝)が解き放たれることの危険性と、それを利用する際の破壊的な方法を熟知していたのである。彼は、1983年に国家主席の任期制限を憲法に明記させた。
その一方で、19
78年12月の中国共産党第11期3中全会で改革開放政策を打ち出し、翌年以降に具体的に実施に移していった。それは、資本主義市場経済の復活を目指すもので、農村部では人民公社を解体し、生産責任制を導入、都市部では経済特区などを設け、外国資本を積極的に導入して輸出産業を育成するとともに価格の自由化を導入した。国営企業改革は労働者のレイオフ・解雇と失業者の増大を招いた(1988年の時点で、都市における労働者のうち二千万人から四千万人がレイオフされていた)。そのため、資本主義的な改革は、国営企業の労働者階級と衝突することになり、一部では労働者の抵抗闘争に対する暴力的な弾圧が起きた。こうした状況が天安門広場の民主化運動に労働者が参加していった背景となった。
天安門広場での民主化運動への労働者の参加と共産党による弾圧
1989年の天安門広場での民主化運動は、当初は学生が主導していたが、次第に労働者の参加が目立つようになった。学生たちは共産党内部の「改革派」に期待し、共産党そのものに挑戦することはなかったが、労働者は自主労組の結成とその承認という共産党にとっては絶対に許容できない要求を掲げて、運動に参加していったのである。天安門広場に「首都工人自治連合会」(北京労働者自治連合会・工自連)が登場し、全国に自主労組結成が拡大していった(上海、長沙、杭州、合肥、フフホト、済南、南昌、蘭州、南京、西安、鄭州など)ことに中国共産党は心底恐怖した。したがって、6月4日以降の弾圧の主な対象は学生たちではなく、独立した労働者組織を作り出そうとした労働者階級の先進的な部分だったのである(注3)。
【注】
(注1)国際委員会での日本支部からの発言
ここで改めて指摘すべきは、中国の体制がスターリニスト政党である中国共産党が支配する国家資本主義である点だ。このスターリニスト政党の目標は、依然として自らの支配的地位を無期限に維持することにある。ゆえに彼らは市場原理や利益最大化の原則に背くことも厭わず、自らの目標に固執する。したがって中国帝国主義を分析するには、スターリニスト政党としての中国共産党の行動原理を分析すべきである。
もう一方では、中国共産党と中国人民との関係の変化を観察すべきである。1989年以降、両者は一種の社会契約関係、すなわち共産党は経済成長と少なくとも一部の人民への富の分配を保証し、人民は政治的舞台に登場しないという暗黙の関係にあった。しかし、中国経済の低迷によりこの関係は損なわれつつある。この状況は中国帝国主義の将来の発展に影響を与える可能性がある。
(注2)『沸騰する「資本主義中国」』掲載の論文(『週刊かけはし』サイトにアップされているもの)
・高島義一「中国共産党16回大会―資本主義的国民政党への転換へ」(2003年1月1日号から3回連載)
・早野一「『中国現代化の落とし穴』によせて」(2003年7月14日号から5回連載)
・高島義一「中国共産党3中全会―『私有財産保護』を初めて盛り込む」(2003年11月17日号掲載)
・早野一「全人代で憲法改定―『私有財産不可侵』を明記」(2004年4月12日号掲載)
(注3)天安門広場での民主化運動への労働者の参加とその後の弾圧については、「天安門事件32年『忘れられた天安門広場の社会主義者』」(ATTAC関西ブログ、2021年6月4日記事)を参照のこと。
(つづく)
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