「エコロジー共働体への道 アンドレ・ゴルツ」(技術と人間 1983) 第二部Ⅲ3「より少なく働き、よりよく生きる」を読んで、「労働時間」と「脱成長」について考える
投稿 読書案内 西島志朗
世界に冠たる「長時間労働」の国
過去半世紀間、あらゆる社会調査が、日本の労働者の長時間労働を指摘してきた。周知のように、男性正社員の長時間労働にこそ、様々な「社会問題」の根源がある。グラフは、少し古いが2016年のOECDのデータである。日本の「男性フルタイム労働者」は、平均して週に約53時間働いている。ヨーロッパ諸国とは歴然とした差がある。
加えて、日本の場合は、「通勤時間」を考慮する必要がある。アメリカとヨーロッパ諸国の「通勤時間」は20~30分であるが、日本のそれは、男性で平均70分、女性で50分である(社会生活基本調査2006年度)。
マルクスの時代から、労働時間の短縮は、労働運動の最重要課題のひとつだった。革命ロシアは1917年、世界ではじめて「8時間労働制」を法制化した。ロシア革命のインパクトを受けて、1919年にはILOの第1回総会で、「8時間労働制」が第1号条約として決議されている。それからおよそ100年。労働時間短縮の闘いが前進しているとは言い難い。
この100年間に労働生産性はどのくらい向上したのだろうか。トマ・ピケティによれば、1913年から2012年までの100年間に、「1人当たりの産出成長(年平均成長率)」は、世界全体で1・6%、ヨーロッパでは1・9%だった(「21世紀の資本」より)。毎年1・6%の成長率で100年増え続けると、約5倍になる。1人当たりの産出が何倍にも増えているということになる。時間当たりの労働生産性も相当に高くなっていると推測できる。しかしそれは、労働時間の短縮にはつながっていない。
1980年代から2000年にかけて、日本の労働生産性は世界でトップ水準だった。今は、OECD加盟38カ国中30位である。生産性が相対的に高いこの時期の方が、労働時間が長かった。当時の日本は世界に冠たる長時間労働の国、「エコノミックアニマル」の国だったのだ。「24時間戦えますか!」・・・。
労働時間とサービス産業
オートメーション、産業ロボット、IT化・・・。製造業の生産性は格段に上昇した。しかし、新たな投資と生産力の増大は、国内での新たな雇用を作り出すどころか、製造業の雇用者数を激減させた。産業構造と雇用の「第三次産業化」が進展する。それは、ひとつには資本のグローバル化の進展、つまり製造業の海外移転によって、もうひとつは、生産現場の技術革新を、労働時間を短縮するかわりに「人減らし」につなげることで進展したのである。余剰労働力は、拡大するサービス産業に流入し、その多くは「非正規社員」となった。
ゴルツは、サービス産業拡大の要因について、根本的に再検討しなければならないという。それは、「社会的サービス」のあり方を問い直し、労働時間の短縮が実現するであろう「脱成長」社会のイメージと深く結びついている。少し長くなるが引用する。
「サービスの需要の爆発的な増大の諸要因を根本的に再検討しなければならない。これらの要因は、常に時間の不足に帰着させられる。両親は既に子供に関わる時間がなく、若者は老人に関わる時間がなく、健康な者は病人に、また健常者は障害者に関わる時間がないのである。赤ん坊は保育所に入れられ、老人はホームに、障害者は施設に入れられる。また『学校の不適応者』は特殊学級に入れられ、彼らは永久にそこに身を没してしまう等々である。人間関係の網の目は、このようにして破壊され、高価で、しかも『受益者』にとって極めて期待外れの官僚的な仕方で与えられる援助が、これに取って代わる。おまけに、男も女も子供も洗ったり、きれいにしたり、修理、修繕したりする時間がないのである(こうしたことを学んだことがあるものと仮定して)。そこで使い古されたものは投げ捨てられる。自分たちのために自ら作る芸術を学ぶ時間は誰にもない。音楽や催し物やゲームは、自主的に生産される代わりに、規格化されたものを提供する企業から買い求められる。料理をしたり、壁紙を張ったり、ペンキを塗り直したりなどする時間は、誰にもない。これら全ての仕事は、全部あるいは一部分専門家の手に委ねられ、あなたにとってその人たちの労働時間は、あなたが自分自身に支払う場合よりも遥かに高いものになる。結局のところ、時間の不足は家族の次元でも、社会の次元でも、貧困化と出費の増大を招く。『生産第一主義の隠された費用』の推定は、ようやく始まったばかりだ。より多くの時間があれば、家庭内での生産のみではなく、芸術、文化、手工業の生産をも発展させることができる。また、街や市町村に対する住民のより直接的な関与、共同のランドリー、食堂、菜園、修理工場の配置を促進することができる。さらには、近隣の人々との間での、またはビルや地域の共同体の枠内での相互的なサービスの交換を、はるかに少ない費用で、しかもはるかに満足のゆく形で行うことができる」(P234—235)。
「自由時間」の革命的な拡大によって、様々な「社会的サービス」は、本来の場所に、家族の愛情や地域コミュニティの連帯と相互依存のところに戻っていくはずだ、とゴルツは主張する。長時間労働こそが、サービス産業の拡大を支えている。「時間が足りない」からこそ、様々なサービスに高いお金を払わざるを得ない。これは資本によって強制された「生活パターン」である。
家族全員で、あるいは近隣の仲間と共に、みんなで一緒に食事を準備し、みんなで揃って食べる生活と、個々の家族の成員が個別に「ウーバーイーツ」を利用する生活とを、比較する必要がある。子供を保育園に預け、仕事が終わると大急ぎで迎えに行き、長時間労働で疲弊したまま子供の面倒を見る育児と、両親にはたっぷり時間があり、しかも地域のコミュニティがみんなで一緒に子供の面倒を見てくれる育児とを、比較してみる必要がある。労働時間の短縮を求める闘いは、「脱成長社会」のイメージを描く闘いなのである。
「耐久消費財」という名称に反して、家電や自動車や住宅は、耐用年数が短く、頻繁に「モデルチェンジ」し、修理・修繕が困難ですぐに廃棄物となってしまう。生活に必要な用具の多くが、部品の一部を交換すれば「バージョンアップ」できるようには作られていないので、それらは丸ごと買い替えねばならない。クーラーや冷蔵庫を「省エネタイプ」に、ガソリン車を電気自動車に買い替える。しかし、買い替えた新品も、数年で、長くて十数年で、また買い替えることになるだろう。ローンを組んで買った住宅は、せいぜい30年か長くて50年しか住めない。「非耐久消費財」に分類される衣服は、「流行」に合わせて毎年、シーズンごとに買い換えられ「消費」されて捨てられていく。「リサイクル」の推奨は、「大量消費」を免罪している。
「・・・供給に対応する『需要を作り出す』ため、つまり、産業システムがその生産物のために必要とする消費者を生産するために、教育、宣伝、心理的条件づけ、研究等々の細分化したサービスがいたるところに存在する」(P216)。
「大量消費」と労働時間
「大量消費」の構造自体が、資本の論理によって強制されている。それらを「買い替える必要性そのものを永続的に作り出すこと」が、資本の再生産を、経済成長を支えている。修理・修繕によって半永久的に使用できる物だけを生産するようになれば、生産を劇的に減らすことができるはずだ。「自由時間」がたっぷりあれば、地域の修理工場や共同作業場で、そこに常備する工具を使い、(最初のうちは「専門家」の支援を受けながら)自分で修理・修繕することが可能になるだろう。それは、自分自身のペースで楽しみながら行う「労働」だ。
「大量生産・大量消費」の社会は、「長時間労働」の社会なのであり、「生産第一主義」の社会なのである。「短時間の、最低限の必要労働と、たっぷりある自由時間」の社会は、「脱成長」と「地域コミュニティ」が構成する社会である。
労働とテクノロジー
オートメーション、産業ロボット、IT化、そしてAIの生産とサービスへの実装は、ますます熟練を解体し、生産ラインで働く労働者を減少させている。最先端の自動車工場や物流倉庫は、ほとんど無人化された。労働社会は、少数の「知的労働」に従事する労働者と、「単純労働」を繰り返す多くの労働者に「二分化」されていく。AIの進化は、マニュアルとアルゴリズムに従う多数の労働者をさらに減らすことで、「人手不足」に対応し、細切れの時間単位で仕事を引き受ける「ギグワーカー」や「スポットワーカー」を増やしていく。同時にそれは、少数の特権的で高賃金の労働者をも減らすだろう。すでにそのような特権的な「エリート」の労働は、「ブルショットジョブ」(無意味で不必要で有害でもある有償の仕事)になってしまっているのだが・・・。
—「労働に生活と人生の意義を見出しうるか」ということは、「テーラーシステム」が生産現場に普及して以来、労働社会論のテーマのひとつだった。マニュアルに従うだけの労働は「うまくできたという満足感」を生まない。グローバルに展開する水平分業と極限まで細分化した生産工程の分業は、「役に立つことをしたという確信」を喪失させている。多くの労働者にとって、すでに労働は、自己実現の場ではないし、人生に意味を与えうるものでもない。残念ながら、労働が「良き生活の営み」となる世界は、すでに過去のものである。
しかし、まさにそれが過去のものとなったことで、「自由時間」の革命的な拡大が可能となった。基礎的な生産財(例えば、鉄やセメント)の生産を中心に、社会を維持するために最低限必要な労働を、みんなで順番に担う。それで可能となる自主的な個々の自由な活動の拡大が、多様な生活必需品と個性豊かなサービスや芸術を生み出すだろう。時間こそ「もっとも尊い文化の原料である」(トロツキー)。
本書の別の章で、必要な労働時間は「今世紀末頃には、生涯2万時間を超えることは、ほとんどなくなるだろう」(P83)とゴルツは書いている。「生涯2万時間」とは、「20年間の4時間労働」や「10年間の8時間労働」であり、順番に行う必要労働と自由な時間を「交互に織り込んだ40年間の断続的な労働」だという。しかしこれは40年前の展望であり、「必要労働」の時間はさらに短くなるだろう。それは、生活の「ほんの一部」にすぎないものになり、「生産的労働」を生活と人生の後景に押しやるだろう。
しかし、AIとロボットが、労働にさらに大きな変化をもたらそうとしている時代だからこそ、この分野についてもっと議論を深める必要がある。いくら「労働時間の節約」になるとはいえ、労働をロボットとアルゴリズムに従属させることがあってはならない。また、人が行うからこそ意味のある労働を、AIとロボットを導入して代替えすることに反対しなければならない。高齢者の介護や医療は、人が行うからこそ意味があるはずだ。医療や介護は、物流と移動サービス(バスや鉄道)などとともに、地域(コミュニティ)を再建し、人と人の絆を再組織する新たな社会の展望にとって不可欠である。
40年前に出版された本書には、古い部分もあるが、ゴルツの思想の核心的な部分は、「脱成長社会」についての示唆に富んでいる。 (9月2日)


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