沖縄報告:参院選に勝利する! 辺野古新基地を止める!/県内市町村の中国での戦争体験記を読む(109)

6月9日 沖縄 沖本裕司

6・7辺野古ゲート前、県民大行動に560人

 6月7日(土)、二カ月ぶりとなる辺野古県民大行動が行われ、キャンプ・シュワブゲート前に560人が結集した。進行役はいつものように、オール沖縄会議事務局長の福元勇司さん。開会前の発言でまず、参議院沖縄地方区の立候補予定者・高良沙哉(さちか)さんが「沖縄の現状を変えたい。沖縄の声が届く政治をつくりたい。政権交代が必要だ」と訴え、参加者と一体となった大きな盛り上がりを見せた。
 続いて、カナダからの参加者、ビクトリア・チエコさんが、「瑞慶覽長敏さんから紹介された」と切り出した後、日本語で「母が沖縄出身です。団結して、命どぅ宝、戦争に反対しましょう」とあいさつすると、大きな拍手が送られた。
 そのあと、韓国の進歩党の一行10人が「沖縄の皆さんと連帯するためにやってきた。韓国にも広大な米軍基地があり、2万8000人の米兵が駐屯している。かつての梅香里の射爆撃場は平和公園に姿を変えた」と述べ、「평화(平和)투쟁(闘争)」と締めくくった。
 集会のスタートはシュプレヒコールから。「政府は日米地位協定を抜本改定せよ!」「民意無視の基地建設を許すな!」「政府は玉城知事と話し合え!」「県民は知事を支えて頑張るぞ!」などの声がゲート前にこだました。
 稲嶺進さん(オール沖縄会議共同代表)は、「6月3日の衆院院内集会に7万1000本の爪楊枝による杭を立てたパネルを持参した。会議室は満杯。正しいことをしているのをお天道様は見ている。マジュン、チバラナヤーサイ、グスーヨー」と檄を飛ばした。
 玉城デニー知事のメッセージは、米軍による事件・事故の再発防止のため「教育内容の見直しや隊員教育の徹底、リバティ制度の厳格化など、より実効性のある対策を実施すること」を求め、県民大行動の参加者に「未来について自分たちで考え、立ち上がり、行動し、共に歩んでいくことを祈念する」と述べた。
 島ぐるみいとまんの大城規子事務局長は、「糸満から8人が国会に行ってきた。全国の野党議員が声をあげてくれれば国を変えることは可能だ。参院選は負けられない。闘いはこれからだ。辺野古を断念させよう。県内でもつまようじ写真展を開催するつもりだ」と訴えた。
 大宜味村の吉浜覚村議のピンチヒッターでマイクを取った奥間政則さんは、吉浜村議と二人でドローンによる名護市・大宜味村・国頭村・東村の海岸浸食の調査を実施したことを報告した。奥間さんは琉球新報2025・2・4を手に、「沖縄の海岸線の砂浜が過去100年間で100km以上消失した。さらに基地建設が環境破壊を加速している。環境破壊を止めることが新たな民意として動き出す」と述べた。配布された資料「北部海岸現況調査および海砂採取個所」によると、北部の海岸浸食は5年前頃から始まり、現在では砂の流出は波打ち際だけでなく場所によっては防潮林や護岸の決壊にまで及んでいるという。
 北上田毅さんは、大浦湾の土質調査に関する情報公開訴訟について発言した。北上田さんは、大浦湾一帯の最水深90mに及ぶ軟弱地盤の土質調査に関して、今年1月3日に、沖縄防衛局長に対し公文書公開請求を行なった。しかし、沖縄防衛局からの回答は、「文書が大量である」として開示決定期限を来年8月28日に引き延ばすというものであった。怒った北上田さんは、これは実質的に「不開示決定」であり「意図的な公文書隠し」であるとして那覇地裁に提訴し、6月3日に第1回口頭弁論が行われた。北上田さんが「国による隠ぺいは許されない」と強く訴えると激励の拍手が巻き起こった。次回口頭弁論は7月22日。
 そのあと、辺野古弾薬庫の再編で新たな核貯蔵庫が造られていることを暴露してきたジャーナリストの山本眞直(ますぐ)さんが「この写真に注目を。この車両は核弾頭を船舶に運搬するもので、辺野古弾薬庫で稼働している。2年前に完成していた4棟の弾薬庫は今年引き渡しが完了し4月から運用が始まった。日米統合司令部のもとで、非核三原則を骨抜きにする動きが進んでいる。非軍事化を長年守ってきた神戸港にも米軍艦が寄港した」と警鐘を鳴らした。
 沖縄選出の国会議員の集まりであるうりずんの会からは、新垣邦男さん(衆院2区)と伊波洋一さん(参院)が発言し、「今度の参議院選が大事だ。政権交代の可能性がある。沖縄から政治を変えていこう」(新垣さん)、「島ぐるみの力を結集して参院選を勝ち抜こう。政府は南西諸島を攻撃拠点とし全国が戦場となるという想定をしていながらそういうことは一言も言わない」(伊波さん)と述べた。
 県議会与党会派を代表して西銘純恵さん(浦添)、現地闘争部から瀬長和男さんのスピーチに続き、糸数慶子さんのリードでガンバロー三唱を行ない、集会の幕を閉じた。梅雨の終わりを示す晴天下、辺野古を止める!参院選に勝利する!との決意を胸に、参加者はそれぞれの持ち場に戻っていった。

2025.5.27 本部塩川港。ゆっくり歩き土砂の搬出を遅らせる。

2025.6.7 辺野古ゲート前。参院選予定候補の高良沙哉さんがアピール。

2025.5.29 沖縄防衛局。島ぐるみ八重瀬の会の要請行動。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(109)
日本軍による戦争の赤裸々な描写


 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する宜野湾市の比嘉さんは、1942年、宮崎県都城の師団に属して中国に派兵され、手榴弾で負傷し一年間の入院ののち、復隊して「北支、中支、南支」へと南下を続けベトナムからマレー半島を経てシンガポールで敗戦を迎え捕虜になった経過を証言している。引用は原文通り、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。

『宜野湾市史』第3巻 資料編2「市民の戦争体験記録」(1982年)
比嘉守義「ダッパコー突破と敗戦」
 昭和十七(1942)年十月二十日、私は県出身者十人と共に宮崎県都城の三七師団に入隊した。そこで訓練を受けた後に前線へ送り込まれるのかと思っていたが、宮崎へ着いた翌日には北支へ送られた。そこで武器の使い方を六か月間みっちり訓練し、いよいよ実戦に配備されることになった。
 私たちは先遣隊で、村々の調査を行ない、情報を集めながら、北支から中支、南支に進攻して、昼夜を問わず敵軍と戦闘を交えた。
 十二月、我々の部隊は北支で早くも敵軍に包囲され、二十日もの長い間、身動きがとれず苦労した。そこは大平原の中に岩山があり、ほとんど夜間にしか進撃しないので、一個分隊の十三人が地形の判断を誤り、敵軍が潜んでいるこの岩山に迷い込んだのである。
 その日はたいへん寒くて、雨混じりの雪が降り、視界もはっきりしていなかった。私たちが、その岩山に接近したとたん、突然手榴弾が投げられ、不意打ちを食らったのである。その時私は、右の横腹と右足に弾丸の破片を受け転倒した。
 あのとき受けた手榴弾の破片が、今も私の身体の中に入っている。……私は北支の軍病院に入院して、約一年もの長い間、病院暮らしをすることになった。……傷も治ったので元の隊へ復帰して中支、南支へ向った。‥…
 私たちは、……重慶(華中)の敵陣地のある城を攻撃したことがある。この陣地は周囲に川が流れて、そのまん中にある城が要塞になっていた。ここは地形的に攻めにくく、川で遮断されているため、なかなか近寄ることができなかった。私たちは、その難所をどうして攻略するか作戦を練ると、山手の方から谷底めがけて弾を打ち込む戦法をとった。谷底に近寄ると敵軍のべースに巻き込まれるからである。
 その日は谷底の要塞めがけて、一日中猛攻を続け、やっと陥落させた。私たちの陣営が攻撃した山から谷底まで三百メートルあった。一個大隊四、五百人で重慶を攻め落とし、私たちはさらに南下した。そして、インドシナの国境近くにたどり着いた。そこは現在のベトナム(北部)辺りにあたると思う。
 当時、ベトナムはフランス領になっており、私たちはここでも戦闘を展開した。この地はダッパコーという町で、現在地図で調べてみるが、そういう名称のところは見当らない。……さらに私たちは、ダッパコーからマレー半島に進攻したが、シンガポールに到達したところで降伏命令が出て、戦闘は停止となった。……
 私たちは日本の敗戦によって、シャム (タイ)の収容所に連行され、フランス軍の監督下におかれた。収容所は山手にあって、ここでの生活は毎日五キロの山道を二回往復してラワン材を運搬するという厳しいものだった。
 ラワン材は熱帯樹で大木になるが、私たちが運搬したのは直径60センチもある長いものだった。それに、ふんどし姿同然で担ぐので、きつい労働だった。フランス軍は馬にまたがり山道でずっと監視していた。それは、敗戦で捕虜になった者と、勝った者との明暗を浮き彫りにしていた。

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