4・6「重慶大爆撃」被害者・家族を迎えて
沖縄交流集会に270人
4月13日 沖縄 沖本裕司
日中友好・不戦を求めて互いに手をつなごう!
「あなたは重慶を知っていますか?」をキャッチフレーズに、4月6日(日)午後1時から5時近くまで、中国「重慶大爆撃」被害者・家族を迎えて4・6沖縄交流集会が開催された。共催団体はノーモア沖縄戦命どぅ宝の会と南京・沖縄をむすぶ会。会場となった沖縄県男女共同参画センター大ホールには、雨天にもかかわらず270人が集まり、日中友好・不戦の決意を新たにした。
進行役は坂尾美知子さんと与那覇恵子さん。主催者を代表して、上地浩昭さんが中国語を交えて歓迎の言葉を述べたあと、「昨年、南京を訪問し日本軍の侵略の現場を見てきた。私たちが望むのは日中が再び戦争をしないこと、友好を深めることだ」と述べた。
はじめに、当時撮影された重慶爆撃のドキュメンタリー映画『苦幹(KUKAN)』が上映された。この映画は、中国系米国人・李霊愛が出資し米国人カメラマンのレイ・スコットが16ミリカメラで日中戦争の現場となった中国各地を回り撮影したもので、1942年のアカデミー賞特別賞を受賞した作品だ。今回上映したのは、重慶の部分約15分をピックアップしたもので、1940年8月の日本軍による爆撃のありさまと市民の生活や抵抗の姿がありありと描かれている。
そのあと、中国からの訪問団が全員壇上に上がり、自己紹介をした。重慶、成都など日本軍による無差別爆撃の被害者や家族、弁護士のほか、日本軍による細菌戦の被害者・家族らが一人ひとりあいさつした。そのうち、姜遺福、侯岩琳、粟遠奎、馬蘭さんの四人が詳しく被害体験を証言した。
姜遺福、侯岩琳、粟遠奎、馬蘭さんの四人が証言
姜遺福(チャン・イーフー)さんは、当時16歳の父親・姜志良さんの1941年5月の重慶爆撃被害とその後の生活などについて話した。緊急防空警報が鳴ったため、父親は兄と従兄の三人で防空壕に避難、大平橋の下に身を隠した父親の姉と母親は爆撃により命を落とした。血まみれの遺体は、腹部や心臓に爆弾の破片が突き刺さっていたという。突然、母親と姉を亡くし大きな悲しみの中に陥れられた父の志良さんは常々「思いだすたびに胸が痛くなる。永遠に戦争はしたくない。日本政府には歴史を正視してほしい」と語っていたという。
侯岩琳(ホウ・ヤンリン)さんは、重慶の自宅で祖父が1940年の爆撃で犠牲になったことを証言した。侯さんは、日本政府に賠償を求めた訴訟の原告になった母親を支え続けてきて、日本の国民が中国への侵略戦争の歴史を知らないことを実感してきたという。侯さんは「一番の問題は、自国の侵略戦争の歴史や被害者の苦しみを知らないことだ。平和と繁栄に向かって手を携えて行こう」と語った。
粟遠奎(スー・ユァンクィ)さんは当時7歳。1940年8月の重慶爆撃で家が全焼、翌年6月の空襲では母と二人の姉と共に近くの防空壕に逃げ込んだ。爆撃が続くなか、壕の中は多くの避難民があふれ、酸欠状態に陥り出口付近に殺到して約1000人が死亡する大惨事が発生した。粟さんは「私は九死に一生を得たが10歳と8歳の二人の姉は亡くなった。重慶も沖縄も戦争の被害者。共に戦争に反対しよう」と語った。
馬蘭(マー・ラン)さんは四川省成都から訪れた被害者二世。1941年7月、当時11歳の母親(蘇良秀さん)の母親(祖母)・弟らが日本軍の空襲の直撃に会い、家族6人を一瞬に亡くした。手足がバラバラになった死体、砲弾の破片が頭にあたり血を流す人など、目を覆いたくなる惨状だったという。足を負傷した蘇さんも一生障害を抱えた。馬さんは「母親は日本に賠償と謝罪を求める裁判にも原告の一人として加わったが、いつも〝大事なことは裁判の勝ち負けではなく、重慶の歴史を多くの日本人に知ってもらうことだ”と話していた。平和を愛する沖縄の人々と共に戦争が起こらないよう協力したい」と語った。
裁判所は加害・被害の事実を認定したが請求を却下
重慶大爆撃を語り継ぐ会の一瀬敬一郎弁護士は、2006年の原告40人による第1次提訴、2008年の原告22人による第2次提訴および原告45人による第3次提訴、2009年の原告81人による第4次提訴(以上の四件は併合され、原告188人となった。第一審=東京地裁)、二審の東京高裁、最高裁と続いた裁判を振り返り総括した。一瀬さんは「裁判所は加害・被害の事実は詳細に認定したが、原告には当時の国際法に基づく損害賠償請求権がなく、民法の規定でも国は損害賠償責任を負わないとした。まったく不当だ。しかし、日本の侵略戦争の被害者が集団で裁判を起こした意義は大きい」と述べた。
休憩をはさんで、南京・沖縄をむすぶ会事務局長の沖本裕司は、重慶からの沖縄訪問団に歓迎の言葉を述べたあと、「侵略の歴史を忘れず友好の道へ」と題して、別掲のように報告した。ノーモア沖縄戦命どぅ宝の会事務局長の新垣邦雄さんは、「いま進められている沖縄・日本の軍事化を知り、つながり、止める!」と題して報告した。
そのあと、質疑応答・シンポジウム「歴史に学び友好を築く」に進んだ。パネラーは、重慶・成都の弁護士・徐斌(スー・ビン)さん、重慶大爆撃を語り継ぐ会の服部良一さん、ノーモア沖縄戦命どぅ宝の会の具志堅隆松さん、南京・沖縄をむすぶ会の具志堅正己さん。
閉会あいさつは、与那覇恵子さん。4時間近くの交流集会は盛況のうちに幕を閉じた。地元両紙と中国の中新社が取材した。また、中国からの訪問団は、4月5日の読谷村のチビチリガマ慰霊祭にも参加し、遺族会の皆さんや彫刻家の金城実さんらと交流した。
日中国交回復の原点に立ち返ろう!
沖本裕司さん(南京・沖縄をむすぶ会事務局長)報告
南京・沖縄をむすぶ会は2019年10月、南京の日本語通訳ガイド・戴国偉さんの来沖を契機に発足した。中国侵略の象徴ともいえる南京大虐殺に対し、戴さんは「南京を訪問する日本人はほんの一部に過ぎない。多くの日本人は知らないし、南京を訪問しない」と述べた。この言葉は私たちの当事者意識を喚起した。「南京を知る。南京に行く」ことを活動の柱としてこれまで、定例会・学習会、映画会・講演会、南京訪問・報告集発行を続けてきた。
日本の明治の近代化とは欧米をまねた新興帝国主義の道だった。「脱亜入欧」はアジア侵略を意味した。日中戦争はどこで起こったのか? 中国大陸だ。日本が侵略したから戦争になった。歴史の事実を見なければならない。
1937年に日中戦争が全面化し、日本軍は中華民国の首都・南京に対する空爆を始めた。南京が陥落し、中国が首都を内陸部の重慶に移した1938年からは、重慶に対する無差別爆撃を続けた。どちらも敵国の首都に対する無差別爆撃である。これはその後、米軍によりさらに大規模にさらに徹底的に、沖縄10・10空襲、東京大空襲、広島・長崎の原爆投下へとつながった。
天皇の軍隊による暴力は組織的ならびに無秩序に行使された。空爆を含み捕虜や民間人の殺害、性暴力、略奪、放火など日本軍が中国に与えたさまざまな戦争被害がどれほどの規模になるか。気の遠くなるような天文学的規模となろう。
沖縄が本土復帰した1972年の日中国交回復で、最大の難関となったのが賠償問題だった。当時の関係者の一人、河野洋平さんによると、「500億ドル」(当時のレートで約15兆円)程度は支払わなければならないと考えていたという。当時の日本の国家予算は約11兆5千億円。115兆円の現在の予算規模で考えると、約150兆円に上る金額になる。
ところが、中国政府は「中日両国国民の友好」のため賠償請求を放棄した。公明党の竹入義勝委員長が1972年7月に訪中した際、周恩来首相から「日本への賠償請求を放棄する。賠償を求めれば日本人民に負担がかかるでしょう」と言われ、体が震えたと語っている。しかし大事なことは、賠償を免れたことが日本の侵略が免罪されたことを意味しないということである。
日中共同声明(1972年9月29日)から三つの文章を抜き出そう。まず過去に関し、「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」。このことが日中友好・共存の基礎である。日本の侵略の歴史を反省することなしに日中の友好はない。
そして現在に関し、「日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する」。不正常な関係はすでに終わっていなければならないのである。未来に関しては、「日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する」。素晴らしいではないか!
田中角栄首相が語った「裏安保」とは、一方の日米安保に対し、日中の友好関係が実質的な安全保障として、軍備拡張は不要、軍事費のGDP比1%の枠を維持、経済に予算投入ということだったが、自民党政治は逆方向を進み、安倍内閣以後十数年で加速してきた。
「侵略」を「進出」とするなど教科書の書き換え、閣僚や政治家の靖国神社参拝、日の丸・君が代の法制化、集団的自衛権、安保三文書、南西諸島をはじめミサイル配備と長射程化(1000キロで沖縄から上海・南京へ)、軍事費のGDP比2%の軍拡、米国は3%を要求。際限の無い軍拡エスカレーション。「裏安保」は形骸化し、日米安保が絶対化している。
日中友好・恒久不戦
日中国交回復の原点に立ち返ろう! 日本は、どのような口実を設けたとしても、決して中国にミサイルを向けるような国であってはならない! 日中友好・恒久不戦。
沖縄の側から日中戦争を考えてみる。琉球は数百年にわたり中国との良好な関係を続けてきた。日本政府による明治の琉球併合がなければ、琉球・沖縄は中国を敵国とみなすことはなく、中国大陸へ出兵することもなかった。琉球併合を通じて沖縄は日中戦争に動員された。軍人・軍属、満蒙開拓団・青少年義勇軍その他で、中国大陸に動員された県民は約2~3万人。その内、約4000人が亡くなったと思われる。さらに、同数程度と推測される戦傷者。沖縄が日中戦争の基地となることに絶対反対する!
2014年翁長知事の誕生以来10年余の闘いを振り返ると、辺野古の新しい基地を止めるため行政と大衆運動が連携した県民ぐるみの歴史的闘いだった。行政のリーダーは翁長知事。大衆運動のリーダーは、この場に参加している山城博治さんだ。沖縄基地を固定化する日本の政治の厚い壁にぶつかり、「日本の一県」にとどまる限り、中央政府の法的行政的支配から逃れられないことが明らかになった。これをどう打ち破るか? この間の闘いに参加した多くの県民の共通の問題意識ではないだろうか。
議論のために二つの提起を行ないたい。
その一。「南西諸島」琉球列島を非武装中立地帯に!
島々の150万の人々の命と生活を守り、米中・日中の軍事対立の先鋭化を緩和する。沖縄はアジアのてんぶす(おへそ)。非武装の島となってこそ、万国津梁・アジアの架け橋として輝ける。
かつて、ワシントン条約(1922年)の軍縮による沖縄の非軍事化の時期があった。琉球諸島の名をあげ、「新たなる要塞又は海軍根拠地をせざるべきこと」(19条)を取り決め、日本の国連脱退まで有効であった。夢物語ではない。第一義的に重要なのは県民の意思だ。
その二。自己決定権を有する沖縄政府の組織化!
東京の中央政府に対して究極的には対等の行政権力を有する沖縄政府の樹立という課題にいかに取り組むか? 歴史認識として、1609年薩摩の琉球侵略、1879年明治の琉球併合によって、日本は琉球・沖縄という異質な領域を抱え込んだが、長年にわたる一体化政策にも関わらず、沖縄は日本に同化されていない。つまり、日本の中に「沖縄」というもう一つの国のタマゴがある、と考えればよい。やがてひながかえり成長すると、どうなるか?

2025.4.6 沖縄県男女共同参画センター「てぃるる」大ホール 。中国からの訪問団が自己紹介。

2025.4.6 沖縄県男女共同参画センター「てぃるる」大ホール 。重慶爆撃を証言する被害者遺族。

2025.4.6 沖縄県男女共同参画センター。報告する南京・沖縄をむすぶ会沖本裕司事務局長。

2025.3.31 那覇空港国際線到着ロビー。重慶からの第一陣5人を出迎え。
週刊かけはし
《開封》1部:3ヶ月5,064円、6ヶ月 10,128円 ※3部以上は送料当社負担
《密封》1部:3ヶ月6,088円
《手渡》1部:1ヶ月 1,520円、3ヶ月 4,560円
《購読料・新時代社直送》
振替口座 00860-4-156009 新時代社