8・2「源啓美が語る 沖縄の戦後80年」

沖縄女性の米軍基地との闘い

沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックが主催

 【東京】8月2日午後2時から、東京・新宿歴史博物館で「源啓美が語る 沖縄の戦後80年」が沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックの主催で開かれた。
 沖縄戦から80年。琉球・沖縄ではその間、27年の米軍統治と「復帰」を経ているが、いまだ米軍と日本に海も空も土地も奪われたままだ。米軍起因の事件事故が後を絶たず、さまざまな問題が起きる中で、沖縄の女性たちはそれぞれの立場で抗い動き続けてきた。そして、そんな女性たちをつなげてきたひとりの女性がいる。
 源啓美さんはラジオ沖縄に入社、定年後もフリーで57年間報道の仕事に携わってきた。「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」事務局長。

 講演の前に、琉球舞踊歴50年という源さんの見事な踊りが披露された。引き続き「個人史からジェンダー視点で語る沖縄戦後80年」と題して源啓美さんが講演を行った。

 渡嘉敷島に
 生まれた私

 個人史を通して沖縄の人々の闘いを伝えたい。私が活動している大きな原点は、ふるさと渡嘉敷島に生まれたことだ。沖縄戦が凝縮した形の所だ。綺麗な海、慶良間海峡。沖縄戦は大きな特徴がある。一つは地上戦があった。二つ目は住民虐殺。集団自決があった。渡嘉敷島では三人にひとりが亡くなっている。なぜ自決に至ったのか。それは皇民化教育の結果で、そういうところに追い込まれていった。女性や小さい子どもたちが犠牲になった。それはその当時の家族や女性観があったのではないか。日本軍が居た所では沖縄中で起きた。
 その時だけではなく、現在も痛みが続いている。私はラジオ局で働いていた。集団自決にあった人や遺族の方々の話を聞く機会があった。その話を紹介したい。
 渡嘉敷島に駐屯した日本軍はどんな軍隊だったか。日本軍「特殊特攻艇」の秘密基地だった。沖縄だけでなく、九州・四国にも特攻基地が作られた。船はベニヤ板でできていた。120キロ爆弾2個、片道の燃料を積んで敵艦に突っ込んでいく。540人が配置された。当時の人口は千人前後だった。彼らは自分たち独自の拠点を持つのではなく、民家に分宿し食事もそこから提供してもらった。
 米軍は渡嘉敷島を襲うのではなく通過し、沖縄本島に向かうことを前提に特攻攻撃を考えていた。しかし米軍は沖縄本島より先に慶良間諸島に上陸した。日本軍は米軍と体当たりするのではなく、この作戦がばれたら困るということで、住民の集団自決が行われた。
 慰安婦が渡嘉敷島にいた。沖縄には140数カ所の慰安所があった。米軍が上陸する前に、慰安所でどんなことが起こっていたか、ほとんど知られていない。住民とあまり接触しない場所に作られていた。唯一渡嘉敷島だけは何があったか知られている。7人の女性たちが朝鮮半島から連れられていた。生き残って戦後も沖縄で暮らして、亡くなった。その女性の本が現れたことで、慰安所がどんなものであったか分かっている。7人のうちの1人は米軍の攻撃で亡くなっている。

 母親の熾烈
 な戦争体験

 私自身の母親の戦争体験。那覇の出身。米軍上陸前に、結婚して渡嘉敷島に渡った。爆撃もあり戦争になるという時に、沖縄本島の実家を訪ねていった。実家の家族と共に自然壕の中で、日本軍といっしょに首里城の地下に避難した。その後南部に逃げていった。摩文仁の近くの壕で、祖母・母の妹の間で死ぬべきか逃げようかという議論をしている時に、日本軍に見つかり、日本軍が持っていた手りゅう弾が爆発した。たぶん自決したんだと思う。それに巻き込まれた。
 目が覚めたら、自分以外は誰もいなかった。1人だけ生き残ってしまったと思い、ものすごく大きなけがをしていた。1人で生き残っても仕方がないと、今度は摩文仁の絶壁から身を投げた。気がついたら米軍の収容所に収容されていた。
 私の母は助産婦だった。南部に撤退し逃げて行くときに、累々と死んだ人たちを踏みつけてしまったりもした。死んだ人のコメや水をもらって南部まで逃げていった。たくさんの失われいく命を横目で見て、地獄の中から生き残ってきたので、5000人の赤ちゃんの命を取り上げる立場になった時に、これは神様から私への贈り物だと感謝していた。
 渡嘉敷島の集団自決が行われた場所は集落の北側にある。1960年、集団自決の場所なのにそこに米軍基地ができる。北朝鮮向けのミサイル基地。69年には役に立たなくなったのか、撤退した。働き手が米軍基地に取られることで、島の基幹産業であった鰹節工場がつぶれてしまった。
 
 激動の時代
 の報道記者

 私はラジオ沖縄で働ていた。嘉手納の米軍墜落事故やコザ暴動なども経験した。国際女性会議も2015年の少女強かん事件も沖縄の激動期を現場で立ち会って報道をした。
 もう一つ大きかったのは労働組合の活動をしていたことだ。1985年に、女たちの文化祭「うないフェスティバル」で女たちのつながりを作った。沖縄では神聖な場所が男子禁制だ。神様につながるのは女性。女性差別が日常生活の中でいろいろあった。国際女性会議をナイロビでやった年だ。その取材に100万円でたが、それを沖縄での女性のための祭りなどに回すことの了承をとった。
 学校でも管理職はみな男だった。女性のアナウンサーはニュースを読ませてもらえなかった。どうやったら女性たちを表に出せるのかが課題だった。そのためには女性たちが手をつなぎ、自分たちの力を信じてやることが大事だった。さまざまな考え方の40団体をつなげた。
 澤地久枝さんの講演会、朝日新聞の松井やよりさんを呼んだシンポジウム、集団自決をテーマにしたひとり芝居をオリジナルで作り上演もした。
 女たちだけのコンサートをやりたいと言ったら、放送局では全面否定された。よかったのはワークショップだ。女性たちがもっと主体的に関われる企画はないかと考えた時に、ナイロビでいろんな国の人たちが活動を紹介していた。ワークショップがうないフェスティバルの焦点になる。バスガイドの35歳定年制が問題になっていた時だ。暮らし、健康の問題などなど。環境の問題もあった。リゾート開発が環境にどんな影響を与えるか。非常に大きなテーマだった。フェスティバルは10年間やった。この活動を通じて「オール沖縄」をすでに実現していた。

 女性国際ネ
 ットワーク

 うない活動が95年の北京会議につながっていく。その最中に米兵による少女レイプ事件が起きた。北京会議から帰った女性たちがすぐに立ち上がり、女性への性暴力は人権侵害であり、犯罪である。最初は新聞も小さな扱いだった。女性たちが声を上げることで、大きな問題に発展していった。8万5000人集まった県民大会ができた。その時に普天間基地の返還が約束された。女性国際ネットワークはさらにつながっていった。世界に派遣された米軍が何をしているか、知ってほしい。13人の女性がアメリカに行き女性たちと交流してきた。同じように米軍基地を抱えて、つらい思いをしている国々の女性たちがたくさん来てくれた。軍事主義を許さない国際女性ネットワーク会議でつながった。手をつないで活動を続けている。1997年にまず沖縄でやり、ワシントン、韓国、フィリピンなど。
 今年は韓国でやった。沖縄と同じであったが、韓国での人権意識の高さに感動した。基地の周りで性産業に働かされている女性たちを、そこから脱却させるためにいろんな活動をしている。米軍がいるのは国の政策だ。そういう女性たちがいるというのは国の責任だ。裁判を起こし国の責任を認めさせた。賠償金も取った。私たちは慰安婦問題で政府の責任を追及できていない。

 軍隊と性暴
 力に抗して

 去年起きた沖縄での性暴力の問題。本当に腹が立つ状況だ。沖縄には知らされなかった。なぜか、その後に同じような事件が続いていたからだ。女性たちは記者会見し公表した。一番問題なのは裁判のやり方が旧態依然としていることだ。
 裁判官が15歳の少女に向かって、「何で一人で公園に行ったのか、なぜ米兵の車に乗ったのか」と、答えさせている。これは本当にセカンドレイプだ。むしろ彼女に聞くのではなく、米兵に「あなたはいつもこんな風に、見知らぬ女性に声をかけて自宅に誘い、こんなことをするのか」と、いうことを聞くべきだ。
 事件はそれだけではなかった。女たちの会は1996年から、「沖縄米兵による女性への性犯罪」年表を作成している。去年で13版を数える。1000件以上の性犯罪が記されている。本当にこんなことがあるのかというようなひどい犯罪が行われている。
 最近の例で言うと16年に、うるま市で行った20歳の女性がウォーキングに出かけて行って、行方不明になって白骨死体で発見された。米兵の証言によれば、ウォーキングしている女性を後ろから、こん棒で殴りつけて、ナイフで刺してそのうえで、レイプをした。その残忍さは本当にこれが人間がすることだろうかと思う。
 なぜ米兵の事件がたくさん起こるのか。狭い沖縄の中で、米軍基地がある。日米地位協定の問題、そもそも軍隊は人を殺すのが仕事。だから軍隊がいる限り、性暴力事件は起きる。すべての基地がなくならない限り、米兵による性暴力はなくならない。(発言要旨、文責編集部)

講演の前に琉球舞踊を披露する源啓美さん(8.2)


 
 
 
 

週刊かけはし

購読料
《開封》1部:3ヶ月5,064円、6ヶ月 10,128円 ※3部以上は送料当社負担
《密封》1部:3ヶ月6,088円
《手渡》1部:1ヶ月 1,520円、3ヶ月 4,560円
《購読料・新時代社直送》
振替口座 00860-4-156009  新時代社