8・3戦争PTSDを考える講演会
南京戦が生み出した戦争トラウマ
南京・沖縄をむすぶ会 沖本裕司

戦争PTSDを考える講演会・シンポジウム。「南京戦が生み出した戦争トラウマ」発言する沖本さん(8.3)
1937年、南京戦に至る道
1931年に始まった日中戦争は、1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに本格化し中国全土へ拡大していった。日本は「暴支膺懲」を掲げて中国派兵を拡大し、戦線は大陸北部から中部の上海、さらに国民政府の首都であった南京へと向かった。
南京城が陥落した1937年12月13日から6週間、日本軍による投降した捕虜の集団虐殺、農民・市民の殺害、強姦、略奪、放火は残酷を極めた。
日本による中国侵略の象徴となった南京戦と南京大虐殺。日本軍のすさまじい暴力が南京の人々にどのような被害を与え、どのような心の傷を残したのか。
南京戦を描いた日中二つの小説
〇石川達三『生きている兵隊』(中央公論1938年3月号)
南京を攻撃した皇軍による住民殺害、掠奪、性暴力を赤裸々に描いた小説として有名。描かれている事実は、日本軍の暴力の氷山の一角に過ぎないが、南京戦の実態を垣間見ることができる。
作者は従軍記者として、1938年1月5日南京到着。発行と同時に、内務省により発売禁止。理由「聖戦に従う軍を故意に誹謗したもの」「反軍的内容をもった時局柄不穏当な作品」
出版社と作者が起訴され、翌1939年4月、有罪判決。
判決理由「皇軍兵士の非戦闘員殺戮、掠奪、軍紀弛緩の状況を記述したる安寧秩序を紊乱する事項」を執筆。戦後に、伏字復元版が発行。
〇阿瓏(アーロン)『南京』(1939年10月脱稿)
中国による南京防衛戦の立場から、日本軍に対する抵抗と国民党軍の内部の有様を事実に基づいて描いた。作者の本名は陳守梅。国民党軍の将校(はじめ少尉)。上海戦に前線指揮官として勤務中、負傷。治療のため延安から西安に滞在中に執筆。
1987年、『南京血祭』と改題し出版(北京人民文学出版社)
日本語版(翻訳=関根謙)は1994年、『南京慟哭』(五月書房) 2019年、『南京抵抗と尊厳』(全訳、五月書房新社)

『南京抵抗と尊厳』P302~3。作中の「通信小隊長厳龍(イェンロン)中尉」が作者を投影した人物だということができる。南京防衛戦に敗れて、厳龍が徐州へと撤退していく時、林の中で見た光景が描かれる。
彼は木の根元に腰をおろした。木の根はひどくゴツゴツしていて座りにくかったが、彼は満足だった。今の彼にとって快適な座り心地など、まさに唾棄すべきものだったのだ。
大粒の水滴がポツリポツリと厳龍の体に落ちてきた。ふと見上げると大きな木の枝に外套のようなものが何枚か掛かっている。ぼんやりとしてよく見えないが、八枚はあるようだ。不思議に思って近づいてみると、それは日本兵の首吊り死体だった。それもどうやら自殺のように見えた。
厳龍には絶え間なく落ちてくる大粒の水滴が、これら死体の目から流れ出る声なき涙のように思えた。
「なぜなんだ?」
日本兵の自殺が何を意味しているのか、彼は深く考えこまざるを得なかった。……
戦場の暴力は暴力を行使する兵士自身の心を蝕む
中国での戦争体験記を読むと日本兵の自殺の話がよく出てくる。戦場の恐怖、過酷な行軍、軍隊内の制裁など極限の苦しみの中で、自ら命を絶つ兵士についての証言が多いが、『南京抵抗と尊厳』の描写はそれとは異なる。
様々な解釈が可能だろうが、大陸北部、上海、南京と続いてきた激戦がひとまず終わりホッとしたところに、自らの日本兵としての行為のあまりの酷さ・醜さに人間の心が耐え切れなくなったと見るべきではないか。
戦場の暴力は、暴力を行使する兵士自身の心をむしばむ。略奪・強姦・殺害・放火などすさまじい暴力を行使した南京の現場で、すでに日本兵の戦争トラウマが起こっていたひとつの例ではないか。
兵士の精神疾患の専門病院・国府台病院(千葉県)には、戦争神経症を患った多数の兵士が入院・治療を受けた。残されたカルテには、症状として不眠やうつ、幻聴幻覚、悪夢、全身けいれん、歩行困難、記憶喪失、薬物中毒などが記されている。
発病の原因としては、「戦場の恐怖」「過酷な行軍」「上官の制裁」「討伐による一般市民の殺傷」などがあげられている。具体的には「良民6人を殺してから夢に出てうなされる」
「地下室に手りゅう弾を投げたが、死んだのは女子ども」といった記述がある。
日本兵の精神疾患の原因の一つに、中国・南京の人々に対する非人道的暴力への自責があると言える。
南京からのSOSは日本に届かなかった
国際安全区委員会のメンバーとして日本軍の暴力に立ち向かったミニー・ヴォートリン(金陵女子大教員)は、日記に苦しい闘いの日々を綴った。日本軍が南京を制圧し、略奪・放火・市民の殺害・女性に対する暴行を続ける中、ヴォートリンは南京の人々から〝華小姐(ファシャオチエ)”と呼ばれ慕われた。(南京紀念館展示室)
「軍事的観点からすれば、南京攻略は日本軍にとっては勝利とみなせるかもしれないが、道徳律に照らして評価すれば、それは日本の敗北であり、国家の不名誉である」(『南京事件の日々』大月書店、12月16日の日記)
「日本の敗北、国家の不名誉」。日本社会は今なおその事実に向き合えていない。
さらに、日記が語る。
「疲れ果て怯えた目をした女性が続々と校門から入って来た。昨夜は恐ろしい夜だったようだ。12才から60才の女性が強姦された。……日本の良識ある人々に、恐怖の事実を知ってもらえたらよいのだが」(ヴォートリンの日記、12月17日)
ところが、日本の人々は沈黙するか沈黙させられていた。
もし、この時期の日本に言論の自由・報道の自由があったなら、南京からのSOSは日本に届いていたことであろう。
1886年アメリカ生まれ、1919年、金陵女子大学に赴任、1937年安全区国際委員会を結成。日本軍の占領後も、女性難民に対する多様な教育に従事。日本の中国侵略の拡大に絶望。極度のうつ状態に。最後の日記(1940年4月14日)「私の気力はもう消滅しそうだ」
1941年5月14日、米国インディアナポリスの連合キリスト教伝道団の秘書のアパートの台所でガス自殺。享年55才。南京戦が生み出した戦争PTSDと見ることができよう。

南京の人々の被害証言とトラウマ
南京の人々がどのような被害を被りその後どのような苦しみ・悲しみを背負ったのか、という証言について、まとまったものとしては次の二つの資料がある。いつ、どこで、どのような被害があったのかが詳細に分かる。
①松岡環『南京戦切りさかれた受難者の魂~被害者120人の証言』(社会評論社、2003年)
②侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館『この事実を……』「南京大虐殺」生存者証言集(星雲社、1999年)640人の証言を収録。
これらの証言を読むと、とくに、至る所で頻発した強姦事件の被害者は、その場で残虐に殺されることが多かったが、身投げするなどの自死や衝撃の大きさによる衰弱死も見られる。
また、日の丸や日本人がテレビに出てくると、体が硬直し恐怖がよみがえるという幸存者の証言も多い。︿幸存者〉中国では、生存者を幸いにも生き残った者と呼ぶ。
しかし、南京事件のPTSDについて、調査・研究は不十分、資料も少なく、当事者の社会的ケアも十分ではない、という。南京紀念館の芦鵬(ルー・ペン)さん、通訳ガイドの戴国偉(タイ・グォウェイ)さんから報告いただいたいくつかの具体例を紹介しよう。
〇父親を殺され、安全区に保護された張玉英さん
︿被害事実﹀
張玉英(チャン・ユーイン)さんは1926年生まれ、当時11才。
1937年6月に家族とともに北京から南京へ。12月13日、父親と南京城内の湖南路に来た時、日本兵が銃剣で父の胸部を刺し銃床で父の頭部を殴り、脳みそが流れ出て死亡。張さんは難民区に入り、ミニー・ヴォートリンに読み書きまで教えてもらった。肉親を失った張さんにとってヴォートリンは親代わりの存在であった。命の恩人への思いを片時も忘れることはなく、ヴォートリンの写真を家に飾り、拝礼していた。
︿トラウマ﹀
ところがある日、写真が無くなったため穏やかな生活テンポが乱れ始めた。泥棒が写真を盗み私を恩人に会わせてくれないと、口癖になった。心の支えを失った彼女はその後、ごみ収集マニアに陥り、家の中はゴミで埋まった。
〇極度の恐怖により心を壊された賀孝河さん
︿被害事実﹀賀孝河(ハー・シャオハー)さんは1929年1月11日生、 当時8才。
南京北東部の平和門近くの北小市街に住んでいた。母親と一緒に防空壕に身を隠したが、日本兵が防空壕に対し機関銃で30分間にわたり機銃掃射。100人以上のうち生き残ったのはわずか12人。賀さんと母親は救出された。翌日、日本軍は防空壕にガソリンを撒き火をつけ、防空壕を焼き尽くした。
︿トラウマ﹀
それ以来、ショックで話すことができなくなった。南京紀念館の職員が会いに行っても、何もしゃべらず車椅子に座って呆然としていた、という。2022年12月18日に亡くなった。
〇強姦によるトラウマ 杜秀英さん
︿被害事実﹀
杜秀英(トゥー・シウイン)さんは1925年生まれ、当時12才。日本軍により暴行された。
︿トラウマ﹀
三度嫁いたが産児不能で離婚を繰り返した。事件の悪夢をよく見た。外の足音が聞こえてくる時に恐怖を感じ、何時もドアを開けっばなしにしていた。汚れを一番嫌った。日本人のことや戦争のことなどを口にすることは極力避ける暗黙の諒解があった。実際に取材で来意を告げるといろんな口実で門前払いを食らったことも度々あった。取材を受ける前まで、12才の時に受けたレイプの事を誰にも語ることなく内に抱え込んでいた。
〇強姦によるトラウマ 張秀紅さん
︿被害事実﹀
張秀紅(チャン・シウホン)さんは1925年生まれ、当時12才。
髭の日本兵が家に乱入し、「まだ子どもだ、許してくれ」と懇願する祖父に銃剣を向け、張さんは暴行された。目が覚めると血が流れだしベッドを真っ赤に染めていた。雨天になると痛み出し眠れない。のちに出産する時に難産で三日三晩かかり、瀕死の状態だった。
︿トラウマ﹀
その後、出産を諦めた。「夫も南京大虐殺の生存者で理解してくれており、祖父も助かったことが心の慰めだ」と語る。張さんを訪ねると、ベッドが汚いから椅子に座りなさいと話し血に染まったベッドでの凄惨な記憶は今なお消えない。
お二人の幸存者二世の証言
一昨年、昨年の南京訪問で、南京大屠殺遇難同胞紀念館にて、幸存者二世のお二人のお話をうかがった。常小梅(ツァン・シャオメイ)さんと曹玉莉(ツァオ・ユーリー)さん。
〇曹玉莉さんが語った母親の戦争体験とトラウマ

母の名は張翠英(チャン・ツィーイン)。1930年12月の生まれ、当時6~7才。たいへん寒い12月。隠れ場所は揚子江の葦原。祖母は当時30才くらい、母と母の弟の二人を連れて、葦原に隠れた。女性は危ないから、鍋の底の煤を顔じゅうに塗って、母は男の子のように丸坊主になった。一か月くらい隠れていた。
太陽が昇ってくると、日本兵が堤防を行ったり来たりしてパトロールする。お腹がすいて辛抱できずに泣きだそうとすると、祖母が一生懸命布で顔を覆った。ちょっとでも声や音がしたら、日本兵は撃ち、近いところなら銃剣で刺した。母はその時左足を刺されヘビのような形の傷口が残った。太平門の近くの家に戻ってくると、家は放火され食べ物は皆なくなっていた。近所の男の人たちは銃で撃たれた人、また脳みそも出ていて、おそらくこん棒で殴られたんじゃないかという感じで亡くなり、死体が腐っていた。
曹玉莉さんは語る。母の足の傷は、薬もなく、腐っていった。発熱もし苦しんだ。医者もおらず、灰・煤とかを傷口に塗った。長い間、「日本」の二文字を聞くと、カッとなる。毎日イライラして、精神状態が不安定。私の記憶では、傷の跡はずっと残っているままの人生だった。天気が曇ってきたりすると、精神状態が変になってくる。ちゃんと歩けない。傷を受けたのは体の一部だが、終生、心の傷を背負ったままの人生ではなかったか。母は2018年に88才で他界した。
父も母も、南京の生存者。いつも、日本に行って南京の不幸な歴史を多くの日本人に語りたい、知ってもらいたいと言っていた。
曹玉莉さんは2022年、南京紀念館の語り部になった。
〇常小梅さんが語った家族の受難とトラウマ
父の名前は、常志強(ツァン・ツィーチャン)。当時、9才。1937年8月15日、無差別爆撃が始まり、政府機能は停止、学校も休校、裕福な人たちは避難した。
安全区に避難しようとして、城内の王府園の空き部屋に入ったが、日本兵が現れた。父の母の胸を銃剣で突き刺し、抱いていた赤ん坊も地面に放り出された。日本兵は、赤ん坊の尻を銃剣で突き上げ放り投げた。当時11才だった父の姉も銃剣で刺された。父は気絶した。
しばらくして意識が戻ると周りは死体だらけ。赤ん坊は母の胸に這いがって乳を飲もうとしたが、母は頭を垂れ亡くなった。父の父は銃弾を受け即死。
8人家族のうち、生き残ったのは父と父の姉の2人だけ。二人は孤児になった。夫を亡くしたひとりの女性が2人を引き取った。女性の家に入ると、まもなく2人の日本兵が現れ、女性と姉を暴行した。三人はその後、難民区へはいった。
幼くして孤児となった二人の姉弟は、世間の差別、いじめ、悪い大人のウソに耐えて生き抜かなければならなかった。二人は親切な大人の助けを得て必死に頑張った。だが、姉は18才の時、城内の広場で草刈りをしている時、日本軍による生物兵器の空中散布に遭遇し、一週間苦しんだ末亡くなった。南京にも、731部隊と同じような生物化学兵器を専門とする栄1644部隊があったのだ。

(南京大屠殺遇難同胞紀念館の彫像。2024・10・18)

常小梅さんは語る。父(常志強)の脳裏にはいつも日本兵に殺された光景があったと思う。笑顔の父を見たことがない。親子の感覚は薄く、父の愛情を感じることの少ない人生だった。父の、少年時代に受けた苦しみを一生引きずる長く苦しい人生の中に、私たち子どももいる。少しでよいから父の笑顔を見たかった。父から愛を受けたかった。そう考えると私の人生も完全ではないと思う
小学生の頃、他の子どもたちは祖父母が学校に迎えに来ることがよくあった。ある大雨の日の放課後も、私を含め数人には迎えに来る祖父母がいなかった。家に帰り、母に聞いた。「なぜうちには、迎えに来てくれるおじいさんやおばあさんがいないの?」。すると母は「日
本軍に殺された」と言った。
戦争の被害や負の遺産が、当事者はもちろん社会全体にもたらした暗い部分は、容易に消えることはない。
ノーモア日中戦争!ノーモア南京戦!
沖縄戦の最大の被害者が沖縄県民であるように、日本の中国侵略の象徴たる「南京戦」の最大の被害者は南京市民である。南京と沖縄は激戦の戦場となったことによる被害とその後のトラウマについて、ある意味、共通する面がある。違いは、県民が日米の戦闘に巻き込まれたという側面が強いのに対し、南京市民は日本軍による直接的な暴力の対象とされた、という点である。
高層ビルが立ち並び活気にあふれる街並みの人々の表情からは、戦争の傷跡はうかがい知ることができない。しかし、敵視と蔑視に基づく「天皇の軍隊」による南京市民に対する暴力により生み出されたトラウマは、様々な心の傷となって多くの人々を想像を絶するような苦しみに追い込んできたに違いない。
日本は、中国・南京の人々に対して、決して再び敵国視し武器を向けるような国であってはならない。ノーモア日中戦争!ノーモア南京戦!
戦争の暴力が生む悲劇とトラウマについて認識を広め、反戦・非戦・不戦が当たり前の社会に、沖縄・日本をつくりあげなければならない。ところが、歴史に無知な政治家が増えている。しかも、無知を恥じない。歴史を知り学ぶことが必要だ。
南京を知る。南京に行く。歴史に学び友好を築くため南京と沖縄の民間交流を積み重ねていく。今年、10月15日(水)~20日(月)5泊6日の日程で無錫―南京―上海を訪れる。
無錫は、上海と南京の間にある太湖の北に位置する都市である。南京攻撃の日本軍は、太湖の北を通るルートの上海派遣軍、杭州湾の金山から太湖の南を通る第10軍(沖縄出身兵が多く配属された第6師団が中心)が競って進軍した。昨年は第10軍のルートをフィールドワークしたが、今年は上海派遣軍の攻撃ルートをたどる予定である。現場に行き学ぶ。
週刊かけはし
《開封》1部:3ヶ月5,064円、6ヶ月 10,128円 ※3部以上は送料当社負担
《密封》1部:3ヶ月6,088円
《手渡》1部:1ヶ月 1,520円、3ヶ月 4,560円
《購読料・新時代社直送》
振替口座 00860-4-156009 新時代社


