沖縄報告 10・16~21 沖縄から28人の南京訪問団

天皇の軍隊による南京大虐殺の現場をめぐる

沖縄報告 11月25日 
沖縄 沖本裕司

 総勢28人による南京平和友好訪問団(主催=南京・沖縄をむすぶ会、団長=沖本裕司、副団長=具志堅正巳)が10月16日から21日まで5泊6日の日程で南京・上海を訪れた。昨年に続く第2回目の訪問である。
 南京・沖縄をむすぶ会が2019年10月につくられて以来、「南京を知る。南京に行く」ことが主な活動の柱である。1937年の日本軍による南京攻撃の現場をめぐるフィールドワークは、昨年が上海派遣軍(京都第16師団、金沢第9師団など)が攻撃した東郊集団埋葬地、光華門、燕子磯、草鞋峡だったが、今年は第10軍(第6師団など)の杭州湾金山、中華門、上新河、下関(中山埠頭)、長江を渡河し浦口を訪れた。さらに、かつての国際安全区の鼓楼病院、ジョン・ラーベ邸をめぐった。また、地元の人々でにぎわう金山の朝市、かつて琉球王国の青年たちが学んだ南京国子監、中国の伝統芸能である京劇を見ることができたし、地元の美味しい中国料理も忘れることができない。行く先々で、今を暮らす多くの中国の人々のありのままの姿を見た。
 本当に多くの方々の歓迎を受けお世話になった。突然の訪問だったにも拘らず1歳の時の被害体験を率直に語ってくれた金山の熊美琪さん、資料本を全員に贈呈してくれた金山の戦場遺物陳列館館長、南京紀念館では、幸存者二世・常小梅さんの証言に耳を傾け、中国のたくさんの観覧客が行き交う中を緊張しながら展示を見て回った。
 紙数の関係で、フィールドワークに限って報告する。

第10軍の上陸地点・杭州湾金山

 1937年。7月の盧溝橋事件を契機に中国侵略を拡大した日本は、上海で中国軍の頑強な抵抗に直面し苦境に陥っていた。このため、上海派遣軍とは別に、新たに第6師団などで第10軍を組織し、上海の南の杭州湾に上陸させた。沖縄出身兵は第6師団の各歩兵連隊(大分47、鹿児島45、宮崎23、熊本13)や師団直轄の工兵、輜重、野砲などの連隊に配属された。第6師団は杭州湾上陸のあと、中国軍を追撃しながら住民に対する殺害・略奪をくり返し南京へと進軍した。
 沖縄の市町村史に次のような証言がある。
「上海の南、杭州湾〔ハンジョウワン〕に上陸した。我が部隊は、上陸と同時に〝日本軍、百万が上陸した”と、高々とアドバルーンを上げた。それを見た支那兵は、びっくりして逃げ出した。我々の機関銃隊は、逃げる兵を後ろからパンパンパンと打ちまくった」(神谷信助。『東風平町史』「戦争体験記」)
 フィールドワークの第1日目は、上陸地点の金山である。金山衛抗日記念公園には、日本軍による無差別の暴力の犠牲者の名前が刻銘されている。その数1050人。その中の一人、熊阿大さんは、日本軍に捕まりマキ割りなどの作業をさせられていたが、持ち手の木の部分と刃の部分が外れてしまい、日本兵から斧を壊したと顔面に切り付けられ殺された。娘の熊美琪さんは当時、1歳の赤ん坊。母親に抱かれていて日本兵の放った銃弾が唇をかすめたが、九死に一生を得て生き延びた。また、殺人池と名付けられたところでは、殺害された遺体が次々と投げ込まれ血で埋まったという。日本軍の無差別暴力は南京の以前から始まっていたのだ。
兵站をおろそかにしていた日本軍は、略奪をくり返しながら南京へと向かって行った。金山の戦場遺物陳列館には、南京に至る地域で収拾された軍刀・砲弾・軍旗・軍服・酒杯など戦争遺物や多数の写真、支那事変画報などが展示されている。神谷さんが体験記に書いたように、アドバルーンがあがっている写真も確認した。
 一行はその後、第10軍が進撃したルートをたどって南京へ向かった。

 中華門

 中華門は古来から、南京の城内と城外をむすぶ堅牢な関門であり、人々に〝南門”と呼ばれ親しまれてきた。南京城陥落は12月13日。国民党軍は敗退した。日本軍は17日に控えた入城式へ向けて徹底した城内掃討に着手し、敗残兵・投降兵の集団虐殺、国際安全区を含む一般住民への暴力、殺害、放火、略奪、強かんなど、組織的であると同時に無秩序な南京大虐殺を引き起こした。
 「熊本兵団戦史・支那事変編」に13連隊による中華門攻撃の記述がある。砲弾ではびくともしない中華門の城壁に爆薬を仕込んで爆破する作戦が写真付きで詳しく描かれている。工兵第6連隊に所属する60人の特別班が「人柱の軽渡橋」でクリークを渡り城壁をよじ登って城壁爆破の決死行を実行したが、そのとき城壁のはしごを支えていた玉城上等兵が戦死した。熊本兵団戦史には、「玉城上等兵は護国の鬼と化した。沖縄出身の純情素朴、無口な青年であった」とある。
 1937年7月7日の盧溝橋事件のあと沖縄からも中国への派兵が急拡大したが、おそらく玉城上等兵はその時に徴兵されたのであろう。所属部隊、戦死の日時と場所を頼りに調べると、名前が判明した。玉城現幸。タマキ、タマシロ、タマグスク。平和の礎の検索機で調べると、住所、生年月日が明らかになった。石垣市登野城出身、享年22歳。数人の友人の情報と見解を総合すると、姓の読みは「タマシロ」、糸満からの海人の移民の家系であろうと思われる。
 又吉盛清元沖大教授がかつて、沖縄タイムス連載の「中国・沖縄元年」の記事中、「南京事件と沖縄人兵」とのタイトルで、南京城攻撃のさ中に戦死した「玉城現幸」ら沖縄出身兵に触れ、「今も全容不明のまま」と述べたことがある。平和の礎に刻銘されている約15万人の県民の住所、生年月日、死亡年月日、死亡地について、現在では、平和祈念資料館と平和の礎の一角の二か所の検索機で調べることができるようになっている。名前が抜けていたり死亡年月日・死亡地が違っていたりするなど不十分さがあるかもしれないが、日中戦争と沖縄との関連を調査・研究する上での基礎資料となるものだと思う。
玉城現幸の名は平和の礎の字登野城のところに家族5人で刻銘されていた。玉城上等兵が戦死した翌1938年1月30日、皇后陛下からの御下賜品伝達式が「戦死者余栄あり」として県会議事堂で行なわれた。この時、八重山郡で10人の戦死者が記されている。南京事件のあと日本軍の中国侵略・派兵は拡大していき、米英との戦争にまで行きついた。現幸の弟と思われる現明は、1945年3月17日、硫黄島で戦死、享年23歳。そして沖縄の地上戦が始まり、八重山では住民の強制疎開が行なわれ、マラリアによる多数の死者が出た。父親と母親、さらに下の弟と思われる13歳の現信が、1945年7月8日から18日にかけて次々と、於茂登岳の麓あたりの白水で死亡した。最後に亡くなったのは父親の現賀であった。現賀は、現幸、現明、現信の3人の子を亡くし、妻のツルを亡くした後死んだ。15万にのぼる県民の戦死者を象徴する一つの例である。私は、平和の礎の刻銘版の前でしばし黙祷した。
 城壁にのぼると、上は車も通るくらいの道路になっており、丁度この日〝マラソン大会”が企画されているとのことであった。眼下には城壁を取り囲むクリークがあり、南の方角に雨花台の高台が目に入る。「南京さえ落とせば戦争に勝てる」と、第6師団の攻撃部隊が国民党軍と南京市民に対し無慈悲で残虐な暴力の限りを尽くしたルートにあたる。復興を遂げた南京の現在の姿からは、当時の戦争と暴力の痕跡を見つけるのは難しい。ただ想像するのみだ。日本軍の総攻撃を受け廃墟と化した南京、累々たる死体。玉城上等兵が工兵第6連隊の特別班としてクリークに入り橋を渡す人柱となり、城壁を登る爆破班のはしごを支えていた姿が浮かぶ。
 上新河

 第6師団の中で、鹿児島45連隊(牛島満を司令官とした旅団所属)は左翼隊をなし揚子江を上流から進撃した。上新河は牛島部隊の暴力行使の現場である。偕行社『南京戦史』の「第6師団の雨花台および城西地区攻撃経過要図」(P131)に、「敵の退路遮断のため左側支隊を派遣」「45 i」(iは連隊を表わす)と記されている。河沿いに建てられた受難同胞紀念碑の碑文には、「武装解除された兵士と一般住民など大勢の我が同胞難民合わせて2万8730人余がこの地で日本軍によりことごとく虐殺された」とある。この時の旅団司令官・牛島満は、南京におけるこうした大規模殺害を「勲章」にして第32軍司令官に就任し、沖縄戦の未曽有の惨禍を生み出したのである。

上海の四行倉庫抗戦記念館

 フィールドワークの最終日となるこの日、南京を後にして上海へ向かった。往路は第6師団が属した第10軍の攻撃ルートをたどって南京に入ったが、復路は上海派遣軍の来た道を逆にたどった。午後3時過ぎに到着したのが上海の四行倉庫抗戦記念館。5階建てほどの高さの壁には無数の砲弾の跡があり、激戦の様子が生々しく残っている。ものすごい迫力だ。週末のせいか、子供から大人までたくさんの人たちが見学に来ている中、館内の詳しい展示を見て回った。
 中国軍が主力を投じて日本軍と戦った上海戦。4つの銀行の倉庫だった四行倉庫に立てこもり10月26日から4日間、日本軍との戦闘が展開された。当時、共同租界地から見守る上海市民からは応援の物資が入り、勇敢な少女が川を渡って届けた青天白日旗が屋上に翻った時には川向こうから万余の歓声が上がったという。「歴史を尊重し資料写真に基づき忠実に再現した」と看板に書かれていた。歴史教育に力を入れる中国の現在の姿とそれに応えて記念館に足を運ぶ人々の姿に圧倒された。
 東アジアの未来は日本と中国との協力にかかっている。そして日中の友好協力の土台は、日本の中国侵略の真摯な反省と平和共存への確たる誓約である。1972年国交回復が賠償請求を放棄して結ばれたことの意味を真剣に受け止めなければならない。中国に対し、再び武器を、ミサイルを向けるようなことは決して許されない。それは、日本という国の在り方の根本の問題である。
                          

『沖縄報告』―辺野古・高江10年間の記録が発行!
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第1部 辺野古・高江 闘いの10年
第2部 海を越えて手をつなごう!
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2024.10.17 金山の殺人池の追悼碑の前で。

2024.10.18 侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館。小梅さんの父と殺された祖母の彫像。

2024.10.19 南京民間抗日戦争博物館。呉館長とガイドの戴国偉さん。

2024.10.19 揚子江の上流、上新河の犠牲者追悼碑。

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