11・11横堀農業研修センター第4回裁判

陳 述 書 2024年11月11日  ①

平野靖識(三里塚歴史考証室)

 私のこと

 私は1978年4月より、成田市東峰65番地1にあります有限会社三里塚物産で代表取締役を務めてきました。2018年創立40周年を機に代表を退きましたが、現在は会長として、引き続き同社に勤務しております。三里塚物産の事業内容は三里塚近辺の農産物の加工および販売ですが、具体的にはらっきょう漬け、煎り落花生などを生産し、生活協同組合や有機食材の卸店・チェーン店などに販売しています。新規就農者たちの有機農産物を優先的に買い地域定着を支援し、農業を基盤とする地域づくりに寄与することを会社の理念としています。
 私は成田空港闘争に反対派支援者として関わって来ましたが、1991年から1994年まで行われた、成田空港問題シンポジウム・同円卓会議に熱田派同盟スタッフとして全会議に出席し、議論に参加しました。 2021年5月より上記三里塚物産の社屋の一角を借り受けて三里塚歴史考証室という取り組みを進めています。三里塚歴史考証室の目指すものは、戦後最大の農民闘争・土地収用事件とされる成田空港問題(三里塚闘争)の歴史を記録・伝承することです。また現に進行している空港機能強化の事態が成田空港問題最大の成果として残された空港問題シンポジウム・および同円卓会議での合意に反し、平和解決とは相いれない方向に向かっていることに、歴史事実に照らした指摘をしていく必要を感じています。
本日ここに証言に立つこともそうした思いに発するものです。
 私は1945年戦後間もなく中国東北(旧満州)の遼寧省で生まれました。翌年6月、両親に抱えられ引揚げ帰国しました。その後私は東京で育ちました。小学校から大学までずっと、平和主義、立憲主義、個人の尊重という戦後民主主義の教育で育ちました。中国からの引き上げと戦後の混乱の中での生活再建の苦労を両親から聞くごとに、戦争はあってはならないものとの思いを深めました。1969年3月、大学の卒業が確定すると、一人、国際空港の建設で揺れる成田・三里塚に来ました。
 当時沖縄の嘉手納基地から、米軍のB52爆撃機が、連日のようにベトナム北部に出撃していました“北爆”と呼ばれた攻撃です。嘉手納には4000メートル滑走路があり、爆弾と燃料を満載したB52は滑走路が4000メートルないと飛び立てないからとのことでした。新たに作られようとする成田空港にも4000メートル滑走路が計画され、必要となればここからも北爆機が飛ぶようになるかもしれない。全国で高まっていたベトナム反戦運動の具体的行動として多くの学生・労働者・農民・市民が三里塚闘争支援に駆けつけていました。私が成田に来たのもそのようなベトナム反戦の動機からでした。

「成田」開港まで

 成田闘争は土地収用法との闘いだったと言えます。1966年7月の位置決定の直後から、運輸省と空港公団は土地収用法をちらつかせ外郭測量を進め用地交渉を迫るなどしました。
 私が成田に来た1969年の12月16日成田空港建設事業は土地収用法の事業認定を受けました。翌70年には同法に基づく強制立ち入り測量が3回あり反対派農民・支援者たちは雨合羽の上に糞尿を塗り、黄金爆弾を手にして広い空港予定地各所で肉弾戦で抵抗しました。71年には2、3月に第1次代執行、7月に1次執行で収用しきれなかった地下壕などに対し仮処分の強制執行、9月には故・小泉(大木)よねさんの宅地・田の強制収用を含む第2次代執行がありました。この間反対派には多数の逮捕者と、双方におびただしい負傷者がありました。とりわけ第2次代執行では衝突の中で3名の機動隊員が亡くなり(東峰十字路事件)、また反対同盟側にも農民として生きる将来を閉ざされた青年が絶望の自死を遂げる(三ノ宮文男さん)などの悲惨な事態がありました。
 ところで、第2次代執行で家・屋敷・田を強制収用された小泉(大木)よねさんには、もう1か所代執行を免れた畑がありました※。 そこは戦後夫・大木實さんと開墾した土地でしたが、農地解放では面積が小さかったので解放を受けることができず、部落(取香とっこう)の名家(藤崎寛司氏)に仮の地主になってもらい耕作を続けた畑です。空港公団はこの名義上の地主が土地売却の意向を示していたので、土地収用法の裁決の申請をしなかったとしています。この畑について空港公団は民事手続きによって裁判所の執行により、開港の前年(77年12月)に強奪しました。この一件は後述の成田空港問題シンポジウムでも強制代執行と並んで取り上げられ、議論されました。(第11回シンポジウム1992・12・15)
 ※成田市古込字駒前の畑。面積約10a。20aに満たなかったので農地解放の資格検査に通らなかった。
 ◇空港会社は、シンポジウムに続く「成田空港問題円卓会議」での隅谷調査団最終所見に示された「平行滑走路のための用地の取得のために、あらゆる意味で強制的手段が用いられてはならず、あくまでも話し合いにより解決されなければならない。」の文言はもっぱら土地収用法の行政代執行に依らないことを求めているだけで民事的な権利行使まで制限するものでないと主張します。しかしシンポジウムでは小泉よねさんの古込の畑のように民事手続きによる土地の収用も議論されており、それを受けた円卓会議の所見が「あらゆる意味で・・・」としているのは、土地収用法の行政代執行以外の強制手段(民事的手続き等)を指すものです。

 成田空港問題シンポジウム・同円卓会議の合意は生きているか

 1991年11月から1994年4月まで 反対同盟熱田派の一部は、国(運輸省)・空港公団・千葉県・周辺市町村・住民団体との間で「空港問題シンポジウム」、「同円卓会議」という論戦の場を持ちました。ここで空港2期の用地問題について「あらゆる強制力の不行使」「話し合い解決」「コンセンサスを得ながらすすめる」との合意がなされ、現在もその合意の下にあります。今この合意にそって考えるなら、空港会社は横堀農業研修センターの一坪用地問題について、まずは話し合いに進むべきだと思います。  以下このシンポジウム・円卓会議合意がなされた経過およびその意味について述べます。

 1978年5月に成田空港は4000メートル主滑走路1本で開港しました。それから10年余りの間は、2期工区(2500メートルB滑走路・3200メートル横風滑走路)をめぐっての「力対力」の対立の10年でした。反対同盟内では支援党派との関係の仕方をめぐり分裂が生じ(熱田派・北原派)ましたが、両派とも「空港絶対反対」「2期工事阻止」でしたし、空港公団では「農家の軒先まで工事をすすめる」「やれることは何でもやる」との強硬姿勢でした。(北原派からはのち小川派が分裂)
 1988年になると翌年に事業認定から20年を迎えるということで、熱田派から事業認定から20年経つと、その事業認定は失効するのではないかとの論戦が何回も公開質問の形で、運輸省にむけて発せられました。この事業認定失効論は要旨「収用された土地が事業認定から10年がたって事業の用に供されていない場合、元の土地所有者には買受権が生ずる。その買受権は事業認定から20年経つと無くなる。土地収用法に事業認定失効の明文規定はないが、20年を過ぎて事業者の収用権限だけは残り土地所有者の買受権は消滅するというのでは国の収用権と国民の財産権との法のバランスが取れない。なので、20年経って収用できなかった場合、以後強制収用はできず、事業認定は失効する」というものです。この20年失効論は1981年4月24日に分裂前の反対同盟が運輸省に赴き「事業認定から11年経った。2期用地の収用対象にされている我々の土地は、10年以降発生する買受権が行使できる状態になっている。事業認定は失効している。」と団体交渉をしたとき、同席した土地収用法の主務官庁の建設省の課長が「一部とはいえ成田空港1期工事は完成し、事業の用に供しているので、2期用地内の土地についても買受権は発生しない。・・・しかし20年経って収用できなかったら、任意買収に頼るしかないです。」との発言があり、その録音も残っていたので、運輸省は追い詰められました。運輸省は事業認定に失効の明文規定がない以上、買受権が消滅しても収用権は存続すると理解する。法律論議は望むところでなく、あくまでも話し合いにより用地問題を解決して参りたいとの返答に終始しました。
成田空港問題シンポジウムは1991年11月から1993年5月まで全15回、同円卓会議は1993年9月から1994年4月まで全12回にわたって行われました。会場は成田市の国際文化会館と芝山町の芝山文化センターが交互に使われました。私はこのシンポジウムと円卓会議に熱田派同盟のスタッフとして全会議に参加しました。
     (つづく)

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