沖縄県内市町村の中国での戦争体験記を読む(104)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
今号で紹介する東風平町(現八重瀬町)の知念さんは1937年、熊本第6師団の輜重兵として中国大陸に派兵され、北部の各地を転戦した後、上海・南京戦に参加した。南京への行軍や陥落後の様子、下關船着場での死体の山を見た体験などを語っている。引用は原文通り、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。
『東風平町史』「戦争体験記」(1999年)
知念富一
「私の日支事変従軍記」
……我が輜重隊は一線の攻撃部隊ではなく、一線の攻撃部隊に弾薬や糧秣兵器等を輸送するのがその任務であり、大行李と小行李に分けられていた。……しかし、現実には一望千里の中国大陸の戦場では、前線も後方もなく前線で敗走した敵は後方へ回り輸送部隊を攻撃するので、我が輸送部隊も敵と交戦しながらの輸送であった。……
永定河〔ヨンディンハー〕の渡河作戦での激烈な彼我の砲撃で散乱する死体、あるいは手足がちぎれて吹き飛んで、高い木の枝にぶら下がっていたりで、初めて見る戦場の光景は実に残酷なものであったが、連日連夜その中での生活にも不感症になり、異臭を放つ死体の傍らでも平気で食事もするようになっていた。黄塵万丈といわれる北支の乾期は舞い上がるほこりと汗で汚れても、衣服や体を洗う暇もなく進撃の連続で、正定城や保定城を攻略し保定ではじめて休養となった。……
石家荘を攻略した頃、中支の上海に又新たな戦火が発生したので、転戦命令が下り塘沽〔タンクー〕の港から船に乗り上海に向かう。十一月中旬頃であったが、私達が上陸した時は既に海軍の陸戦隊が上海を占領していた。……
一線からの連絡で南京攻撃中の前線部隊の弾薬が欠乏し苦戦しているとの事で、我が中隊はこれから六キロ行軍に移るとの命令で、普通行軍は四キロであるが六キロになると小走りの行軍になる。しかも小休止の休みも五分か長くて十分間で、馬に水を飲ます時間も無いくらいである。それに連日連夜のぶっ通し行軍で、腰を降ろして休めば立ち上がるのが大変な位で、馬に寄りかかって立ったまま僅かの休みであった。
弾薬補給部隊の到着するのが遅いので、砲兵隊は南京の六キロ手前まで戻って来て、輸送部隊から砲弾を弾薬車に積み替えるとまた南京へ向けて全速力で馬を飛ばしていった。南京が陥落したのは確か十二月十三日頃だったと思うが雪が降っていた。南京に到着して城外に露営してしばらく休養したが、戦場の常とは言え死体のあまりの多さには驚いた。道の両側に死体を積み上げて、人の通る中央部だけが空いている状況であった。
また、一週間程経ってから南京の船着場である下關〔シャークァン、山口県下関と区別するため、旧漢字にした〕港に糧秣受領に行って、又悲惨な光景を見た。中支でも十二月までは乾期で雨量は少なく、雨期と乾期では揚子江の水面の高さは四~五メートルの差があるとの事でした。当時は乾期のため、水面は低く下關船着場の岸壁から水面までの高さはそれ以上あったかと思われる。その岸壁から水面に放り込まれた死体の山は、岸壁のコンクリートの高さまで積もっており、波止場の広場は血で赤黒く染まって異臭を放っていた。多分追い詰められて逃げ場を失った敵兵は、ここで虐殺されたのであろうとの話であった。一か所にこれだけの死体を見たのは、おそらく南京の大虐殺の現場ではなかったかと思う。
南京攻略後、蕪湖という街に駐屯すること約一か月、その間大分47連隊が警備している寧国へ往復四日の輸送任務に当たっていたが、武漢攻略の進撃が開始された。その途中黄梅あたりからマラリア患者が続出、私も四十度位の高熱を出し、顔や唇も紫色になりガタガタふるえながらの強行軍に悩まされたが、体力があったので何とか持ちこたえることができた。
黄梅を過ぎてから途中で待機命令があり、森の松林に馬けい場をつくり兵は近くの農家に宿泊する。真夜中に敵襲があり馬が三十数頭即死、小隊長の福留少尉も戦死した。翌日隊長の遺体をダビに付し、ねんごろにこれを弔い後始末をして再び出発したが、敵も日本軍の進撃を阻止するため道路を寸断破壊して退却するので、工兵隊の補修が間に合わず稲田の中を前進するが、何百という車両が通るので全くの泥海で、そこで立ち止まろうものなら車は動けなくなるので馬に鞭を当てて命がけの行軍である。肉体的苦痛はこの上ない程で、片手片足を失っても早く負傷して内地に後送されたい気になったりもする。このような苦痛に耐えながら前進続けて武漢を攻略したが、長い期間の作戦行動に体力を消耗して人馬ともに痩せこけていた。……
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