県内市町村の中国での戦争体験記を読む(105)

 日本軍による戦争の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する東風平町の野原さんは、1938年、25才で出兵してから、中国を転戦し帰還した後、沖縄戦で奥武島の海上挺身隊に所属していた経過を証言している。引用は原文通り、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。

野原栄昌「支那事変と沖縄戦に参加して」

『東風平町史』「戦争体験記」(1999年)

 昭和十二(1937)年八月頃支那事変が起こった。その翌年私が二十五歳になって召集令状が届いた。第11軍に編入されて中支の興山、徳安、合見荘方面へ転戦した頃、優勢な中国軍に包囲されてしまったのである。食料も底をつき、田んぼに生えている稲穂を取って鉄兜に入れ、敵前で炊いて食べたこともあった。
 そのうち援軍に助けられたが、援軍の来るのが遅かったら全滅していたに違いなかった。その後、命を受け転戦を繰り返しながら、四個師団で武漢三鎮攻略戦に参加したのである。当時の支那兵は正規の服装はしないで、民間人の服装をして銃を携帯していた。それを発見したら直ちに隊長に報告、その場で射殺した。銃を持たない民間人への手だしは決してやらなかった。
 バイアス湾から上陸した第21軍と協同して、武口から輿山・武漢三鎮を攻撃して、昭和十三(1938)年十月に占領したのである。それから暫くは占領地の守備につき交替の部隊の来るのを待っていたが、予定変更となった。部隊はさらに南方へ進撃の命令が出た。行先は南支の九江という所で、そこは既に日本軍が占領した地域であったので、暫く守備について帰郷したのであった。……
 私は大東亜戦争が始まってあと、昭和二十(1945)年に二回目の召集を受け現地入隊した。部隊は海上挺身隊と云って玉城村奥武島に配置されている特攻隊の第28戦隊であった。目的は舟艇に爆薬を積んで敵艦隊に体当たりをする特攻隊である。舟艇と云ってもベニヤ板で造ったお粗末なものに、ヂィーゼルエンジンを取り付けた一人乗りの舟艇である。
 私達はその特攻用の舟艇を管理する部隊で、特攻隊員ではなかった。真玉橋にも分隊があったので、たえず行き来した。私はその隊の小隊を指揮していたが、町出身者には富盛、世名城の青年もいた。奥武島の基地は、海面近くの森に横穴を掘り舟艇の待機場所にしていた。本隊は志堅原にあって、分隊は港川にあった。隊員は港川の分隊が多かった。
 ある日具志頭の港川から命を受けて、豊見城村にある「タングムイ」(国場川の上流)という所に荷車に舟艇を乗せ、十四、五人で運んだこともあった。ほとんどが東風平の青年で、正規の兵隊十人位と、あとは防衛隊員であった。近くに砲弾が落下するたびに舟艇を避難させながらの輸送は命がけであった。

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