11・2辺野古県民大行動
2カ月ぶり ゲート前に750人の活気
沖縄報告 11月3日 沖縄 沖本裕司
10月は台風のため中止された辺野古県民大行動が11月2日、2カ月ぶりにキャンプ・シュワブゲート前で開かれ、県内外から750人が集まった。県外からは、ハワイ県人会および兵庫県人会、明大土曜会に集まる全共闘世代や首都圏の学生たち、静岡・沖縄を語る会などが参加した。開会に先立ち、琉大教授の阿部小涼さんとフィールドワークで沖縄を訪れた立教大の十数人の学生が並び紹介された。いつにもまして若者の姿が目に付くゲート前となった。進行役は福元勇司さん。
はじめに、糸数慶子さんが「座り込みが3772日を迎えた。沖縄から三人の当選は嬉しいが、投票率の低下は悔しい思いがする。今朝の新聞に、沖縄駐留米海兵隊が家族を避難させるとの記事が出ていた。沖縄を戦場にさせてはならない」と訴えた。知事メッセージは福元さんが代読した。いつものように「ハイサイ、グスーヨー」とあいさつした玉城知事は、「投票率が50%以下になったことは残念。選挙の投票は未来をつくっていく権利の行使。県民の強い意思がある限り辺野古新基地は絶対できない。私は県民の安心・安全のため全力で取り組む」とアピールし、大きな拍手に迎えられた。
憲法学者の飯島滋明名古屋学院大教授はジュゴンが描かれたブルーのTシャツを着けてマイクを取り、「第9条の戦争放棄を守るためにも、一人ひとりの国民の不断の努力が求められる。諦めたらそこで終わり。頑張り抜きましょう」と訴えた。ヘリ基地反対協の浦島悦子さんは、辺野古住民訴訟の意義について語り、「国による代執行の違法性を明らかにし、新基地建設を断念に追い込む」と決意を述べた。女団協(県女性団体連絡協議会、22の団体で構成)の伊良波純子会長は「県民大会の開催をあくまで求めていく。女性の問題は女性だけの問題ではないし、県外の皆さんともつながっていきたい」と述べた。
そのあと、衆院選で当選した赤嶺政賢(1区、共産)、新垣邦男(2区、社民)、屋良朝博(比例区、立民)の三人と4区で落選した金城徹さんがそろって前に立ち、代わるがわるマイクを取った。赤嶺さんは「辺野古ゲート前と結びついて闘いを進めるのが国会議員の役割だ。選挙互助会などというヤワなものではない。原点を忘れず国会で行動する」と決意を述べた。屋良さんは「自公の過半数割れはわれわれの勝利だ。これまでは数のおごりがひどすぎた。これからは議論ができる。辺野古の工事を止めさせる。オール沖縄の真価が問われる」とアピールした。参院の伊波洋一さん、高良鉄美さんも元気な姿を見せた。
与党県議団は10人が並び、仲宗根悟さん(おきなわ新風)が「与党議員は20人。県民の団結が大事」と発言した。現地闘争部から瀬長和男さんが「毎日これだけの人が辺野古、安和のゲート前に集まれば工事は止まる。一週間に一度、一か月に一度でも現場に足を運んでほしい。ヘリ基地反対協は権力を持つ相手に対し30年近くにわたって闘い抜いてきている。沖縄の声が全国、全世界に届くように頑張っていこう」と呼びかけた。
締めくくりは、まず基地に向かって英語で「We don’t need US bases」と全員で叫んだ後、しばらくぶりに元気な姿を見せた高里鈴代さんがリードしてガンバロー三唱を行なった。参加者は750人と発表された。
辺野古ゲート前。オール沖縄会議主催の県民大行動に750人 (11.2)
2024.11.2 辺野古ゲート前。沖縄選出衆院議員。新垣邦男、赤嶺政賢、屋良朝博さん。
2024.11.2 辺野古ゲート前。米軍基地に向かって、 We do’nt need US bases!
衆院選沖縄選挙区
1区・2区で勝利、3区・4区は惜敗
10月27日投開票の衆院選沖縄選挙区は、1区・2区で勝利、3区・4区は惜敗との結果になった。選挙前に指摘した通り、共産・社民・立憲・れいわによる統一候補の擁立と共同した選挙闘争体制が築かれていれば、10年前翁長雄志知事を誕生させた直後の衆院選のように、自公政権に対し全4区とも勝利することが可能であったであろうから、残念な結果であった。また、投票率は全国平均の53・85%に比しても、49・96%とさらに低く衆院選で初めて50%を切り、県民の政治離れ・政治不信を示すことになった。と同時に、これまで県内に基盤のなかった参政党という右派政党の登場と5%にのぼる得票率は要注意だ。数字は選管最終。
政権与党の自公で計36・31%(全国では47・04%)、野党第一党の立憲が17・40%(全国は21・20%)、国民が6・93%(全国は11・32%)となっているのに対し、国会内左派三党の共産・社民・れいわで計28・41%(全国では、14・85%)となっている。つまり、全国平均に比して、沖縄は自公に対する投票が10%以上低く、二つの民主党に対する投票が8%以上低いのに対し、共産・社民・れいわの三党に対する投票が二倍近く高い。こうした県民の政治意識を背景に、1区共産、2区社民の選挙区での当選が可能となった。
共産・社民・れいわの強化を!
4区は単一候補を組むことができなかったため立民・れいわとも落選したが、れいわの候補は比例区で復活当選した。沖縄から初めてのれいわの議員だ。山川仁さん(元豊見城市長)は、消費税撤廃など生活防衛の公約と共に、辺野古新基地建設反対、琉球列島のミサイル基地反対の方針を掲げている。今回オール沖縄会議とは分裂の選挙となったとはいえ、自公政権に反対する沖縄選出国会議員であることに変わりがない。山川さんには、沖縄選出議員の集まりである「うりずんの会」に加わり共に活動することを強く望みたい。
メディアの県民意識調査に際して常に明らかになるように、県民の大多数は「復帰して良かった」と思っているが、軍事基地、人権、経済、子供の貧困など解決すべき焦眉の問題があると考えている。現場の大衆運動と結びついて、共産・社民・れいわの左派三党を強化し、立憲・国民の二つの民主党を引き付け、自公政権に対し対決していく強力な陣営を築き上げなければならない。
<1区>
赤嶺政賢 (共産) 49,838
国場幸之助(自民) 42,104
下地幹郎 (無) 29,615
和田知久 (参政) 9,271
<2区>
新垣邦男 (社民) 61,216
宮崎政久 (自民) 47,272
赤嶺昇 (維新) 22,959
今野麻美 (参政) 11,813
<3区>
島尻安伊子(自民) 73,226
屋新朝博( 立憲) 71,457
新城司 (参政) 12,242
<4区>
西銘恒三郎(自民) 61,289
金城徹 (立憲) 47,248
山川仁 (れいわ) 20,284
山川康博 (維新) 12,481
比例区については県内の各政党別得票数(カッコ内は得票率)は多い順に次の通り。
自民 109,657 (19.39)
立憲 98,432 (17.40)
公明 95,707 (16.92)
れいわ 68,181 (12.05)
共産 46,645 (8.25)
社民 45,876 (8.11)
国民 39,174 (6.93)
維新 33,583 (5.94)
参政 28,377 (5.02)
『沖縄報告』―辺野古・高江10年間の記録 11月下旬に発行
翁長知事の誕生と共に始まった沖縄報告の10年間が、このたび一冊の単行本にまとめられ、柘植書房新社から発売される。A4並製、408頁、写真多数。定価3000円+消費税。内容は大まかに以下の通り。
第1部 辺野古・高江 闘いの10年
第2部 海を越えて手をつなごう!
第3部 沖縄の自立と解放をめざして
10冊以上の注文は2割引き。詳細は柘植書房新社(電話 03-3818-9270)へ。
県内市町村の中国での戦争体験記を読む(107)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する嘉手納町の知花さんは、1942年の徴兵検査から都城23連隊の一員としての中国大陸への出兵、中国大陸の北から南への大移動、パラチフス罹患と入院、タイのバンコクでの終戦と捕虜生活に至る経過を証言している。引用は原文通り、省略は……で示し、補足は〔 〕で示した。年号を西暦で補充した。
『嘉手納町史』資料編6 戦時資料(下)(2003年)
知花包喜
「私の戦争体験―中国大陸北から南へ一万キロ余の縦断―」
徴兵検査は、昭和十七(1942)年春、普天間尋常高等小学校で受けた。検査の結果は第一種乙種(甲種)に合格し、歩兵226聯隊現役兵として昭和十八(1943)年一月三日郷里を離れ、宮崎県の都城23聯隊に入隊したのが兵役の始まりである。同年一月十七日には、都城を出発し下関港から朝鮮の釜山港に上陸し、その後は汽車で目的地まで移動した。
一月二十日、安東〔アンドン〕通過後山海関〔シャンハイグァン、万里の長城の一部になる要塞〕の北支那派遣軍が駐屯する部隊本部所在地の山西省、〔現在の運城県と夏県にまたがる地域の旧名〕安邑(あんゆう)の9中隊、柳田隊に編入された。この隊では、小隊長に目をかけられ伝令役をはじめ、身の回りの世話など多くの役目が待っていた。……
歩兵の行軍は、四キロ単位で四十五分歩行、十五分休憩が通常の形態であったが、歩行が遅れたり、脱落者がでた場合は捜索のため作戦上隊全体が大きな迷惑を被ることもしばしばあった。……第18秋大浜地区作戦は、十一月十七日~十二月七日まで、第3次北封鎮掃討作戦に参加した時、あまりの空腹に耐えられず避難中の民間人家庭に侵入し、残り物の食事を食ったのがわざわいしてパラチフスに食あたりし意識不明のまま陸軍病院に担ぎ込まれた。昭和十九(1944)年二月十一日に病院を退院するまで部隊は転戦を繰り返していたようだ。……
当時の初年兵は、行軍の苦痛に耐えられず逃亡者が多かった。その捜索のため本隊は、苦労の連続であった。初年兵十名全員が帰らぬ逃亡者となったのも忘れられない、この初年兵を受け入れた当時日本の惨めさと物資不足が理解できるようになった。すなわち、兵の武装は五人に一丁の銃しか携帯してなく、また水筒はといえば、昔の戦国時代の竹筒でできた代物であった。逃亡者が出たのも当然ではなかったかと今にしてみれば思い当たることも少なくない。……
八月二十日の終戦は、泰国の磐谷〔バンコク〕市であった。終戦後は、「投降兵」としてイギリス連合軍は丁重に扱い収容所周辺の草刈作業や船の錆落としなどの軽い作業が主で、待遇は比較的良好で、その間は泰国女性からの差し入れも多く、なかなか快適な収容生活だった。
週刊かけはし
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