有色人種差別の一風景
コラム「架橋」
1996年8月、メキシコのチアパスで開催された「新自由主義に反対する大陸間集会」に参加した後、私は大阪で組織されたエルサルバドルへのスタディツアーに参加した。
当時のエルサルバドルは内戦終了から4年余り、治安状態はひどく悪く、街での自由な散策は許されなかった。(「かけはし」1996年11月4日号参照)
その時の訪問先の一つに日系企業であるT紡績の子会社があった。その会社の唯一の日本人が副社長のA氏であり、彼の話を聞くために訪問したわけである。
私たちを前にしてA氏は開口一番「昨日コスタリカから帰ったばかりで疲れた。エルサルバドルに戻ってくるとホッとする」と語ったのである。
私たちは聞き間違ったのかと思った。当時はもうコスタリカは日本でも平和国家として有名であり、エコツーリズムも盛んで、治安も良いとされていたからである。ちなみにコスタリカにもT紡績の子会社があり、A氏は唯一の日本人で、社長であった。
コスタリカは白人国家である。「地球の歩き方」03~04年版によれば、白人とその混血95%、アフリカ系黒人3%、先住民2%とある。一方、エルサルバドルはメスティーソ84%、白人10%、先住民5・6%とある。
A氏の話から察するに、日本人であり社長である彼に表面だった差別はないのだが、無言の差別の圧力を感じ、それが強いストレスになっているようだった。
当時私は大阪でエルサルバドル人のT氏からスペイン語を習っていた。帰国後、私はその話をT氏にした。すると、T氏は声を荒げて、「コスタリカには肌の色での差別があるから、私は2度とコスタリカには行きたくない」と語ったのである。ちなみに、T氏の顔つきは欧米系だが、肌の色は黒褐色だった。
彼はエルサルバドルの大学の大学院で染色の研究をしていた時、その研究でコスタリカの大学に招待されたという。その時、彼は妹を同伴した。彼の妹は肌は白く、金髪だった。結果、彼を招待した大学でも、パーティーでも主役は常に妹であり、本来主役であるはずの彼は完全に無視されたのだという。(O)

