「震災遺構を訪ねて」

コラム「架橋」

 小春日和とも言う暖かい日なので懸案であった震災遺構を見学に行くことにした。常磐線から見える景色は稲刈りを終えた田圃と驚くほど増えたいちご・野菜のビニールハウス群。
 国が農家の6次産業化支援策として「6次産業化・地産地消法」を作り様々な特典を与えたのが2011年。生産・加工・流通を一手に行う事業体を設立するわけだがこの地でも失敗し清算し売却したと言う話も聞いている。
 そんなことを考え移り変わる遠くの景色の中に目的の「中浜小学校」が見えてきた。坂元駅に隣接する山元町農水産物直売所「やまもと夢いちごの郷」。太平洋と阿武隈山地という海と山に囲まれた温暖な地域。近年「移住者」が増えているそうだ。無料の「レンタサイクルいちGO!」を借り出発。道端の「耕作放棄地」
は2m近くのセイダカアワダチソウが占め、人の手を離れた11年の姿を見る。
 東日本大震災。屋上に避難した児童、教職員、保護者90人の命を守り抜いた震災遺構「中浜小学校」。案内人の方がいろいろ説明し10分間のビデオ視聴の後で屋上に行く。このあたりは、黒松林が延々と続く景色が良く長い直線鉄路が走っていたが、線路跡を嵩上げし「第二防波堤」の道路としている。
 高さ6mの津波情報。校庭の生徒全員を2階に避難。テレビが「10分後に10m超の津波到来」報道で全員が屋上屋根裏部屋に避難を決断。本当に狭く急な階段を上り屋上へそこから見える青い海。
 あの日、巨大な津波となって校舎を襲い2階まで破壊する。ビデオに映し出された第三波の津波はとてつもない大きさだ。屋上から海を見ていた校長、教職員の恐怖・不安は想像を絶するものだったろう。
 幾つかの「偶然」が重なったと元校長は語る。巨大な波と第一、二波の引き波がぶつかり力を削ぎ屋上に到達しなかったこと。当日は雪が舞った寒い日。暖房はおろか水・食糧もない。役場職員が、非常時備品として毛布を送ったことを思い出し防水袋に入った大量の毛布を探し出し、余震と寒さでふるえる子ども達に2人1枚の毛布。職員はあり合わせのものを体に巻き付け防寒に。子ども達にはしっかりと情報を伝え懐中電灯の明かりを頼りに暗い夜を過ごしたという。そして「偶然」は続く。 
 それは、学校の校庭に震災瓦礫が無かったことである。そのため、救出ヘリが校庭に着陸し短時間で全員を救出できた。ビデオに映った救出の状況は、しっかりとした足取りでヘリに向かう子どもたちが映っていた。
 「幾つもの偶然が重なり全員無事に救出された」。一つ目は「10mの津波情報」、二つ目は「屋上の屋根裏部屋の存在」、三つ目は「寄せ波と引き波」、そして高潮・津波対策を施して嵩上げして建てた「校舎」等。「水平非難」「垂直避難」いずれかの選択が正しいかは判らないと結んだ。
 帰りに施設を一巡し当時の状況を思い描いてみた。いま、施設の周りには一軒の民家もない。680人の犠牲者が伝えたかったことを震災遺構は静かに伝え続けている。
 「昭和八年三月三日 地震があったら 津浪の用心」メモリアル広場の津波の碑より  (朝田)

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