横山晋さんのお墓参り

コラム「架橋」

 4月29日に、昨年5月5日に61歳で亡くなった横山晋さんの墓参りがあった。17人も参加。彼は山谷の支援を長年にわたり精力的にやっていた。この日も山谷の炊き出し。炊き出しがひと段落し暑かったので、アイスをみんなのために買い出しに行き、その店先で倒れてそのまま帰らぬ人に。
 お墓は都立小平霊園。広大な霊園だ。父親の13回忌も兼ねてお坊さんがきてお経をあげてくれた。父親の戒名に「球児」という字が刻まれていた。お寺さんによると、父親はジャイアント馬場が巨人軍だった時に、内野手だったので「球児」と入れたというのだ。生前の横山さんからそんな話を聞いた人は誰もいなかったので一同驚いた。
 墓参りの後に食事会をしながら彼を偲んだ。印象に残ったのは、彼が何十年も山谷支援に関り続けたことにより、一度足が遠のいてもまた参加してみようと思っていたという人が何人もいたことだ。横山さんは自己主張が強く、他を圧倒するタイプではなく、他の人の言うことを聞きながら、その人を包み込んでいくような包容力のある人だった。もちろん、権力の不当なやり方に対しては毅然として立ち向かうことは誰にも引けをとらなかった。
 毎回の炊き出しのメニューをタテ看に書き知らせ、時々の政治的なニュースを「日刊ゲンダイ」を切り貼りして知らせる。山谷の労働者と会話ができるような工夫をしていた。
 こうした横山さんの姿勢に対して山谷の労働者は、山谷の中で唯一カメラを向けてかまわない人として信頼を寄せていたという。
 横山さんの毎年の越年・越冬の写真を思い出す。餅つきや炊き出しの大きな鍋が連なる印象的な写真だ。そこには山谷に生き暮らす人々の喜びや厳しさが映し出されていた。
 私ごとだが、西武小平駅に降り立ったのは54年ぶり。1969年に高校民主化闘争をやり田舎の高校を退学になり、1970年に私立高校に転入した。最寄りの駅がここだった。今回のお墓参りに誘われなかったら、来ることはなかった。当時のことを懐かしく思い出した。まあ、めちゃくちゃな人生であったが、世の中を変えようという気持ちだけは強烈に持っていた。(滝)