「脱成長」と「エコ社会主義」をめぐる綱領的議論の深化を
投稿 マルクス主義はなぜ「生産力主義」であり続けたのか
西島志朗
西島志朗さんから「『脱成長』と『エコ社会主義』をめぐる綱領的議論の深化を」という文章が寄せられた。「生産力主義」の歴史を紐解く中で考察している。第四インターナショナル18回世界大会(2025年に開催予定)のエコ社会主義宣言(6月5日号より連載した)の討論と合わせて活用していただきたい。(「かけはし」編集部)
斎藤幸平の貢献
「生産力主義的なマルクス主義」が、あるいは少なくとも生産力の発展を楽観的に肯定する態度が、マルクス主義者の中で支配的了解であり続けたのはなぜだろうか。「マルクス主義は、進歩の基本的原動力としての技術の発展から出発し、生産諸力の動力学の上に共産主義の綱領を構築する」(トロツキー)という思想は、マルクスに始まって、第二インターナショナルの時代から、20世紀全体を貫くマルクス主義者の「信念」であったということができる。
もちろんそれは、「生産力=技術」の発展を無条件に支持してきた、という意味ではない。だからわれわれは、反公害住民運動や食品薬品公害に抗議する運動、農薬と化学肥料漬けの農業に反対する人々と共に歩もうとしてきたし、原子力発電や遺伝子組み換えなどに反対してきた。
しかし、残念なことに、実践的なレベルでも思想的レベルでも、われわれは、エコロジー危機、気候危機に感応して、速やかに「脱成長」へむけた綱領的転回を行うことができなかった。70年代に、「反生産力主義」的なエコロジストの思想と運動に対面した時、反原発運動や反核闘争の中で共闘しつつも、われわれはそれを「反近代主義」だと批判して、自らを真剣に顧みることなく切り捨てたのだった。
斎藤幸平が、「晩期マルクスのエコロジー」を明確化したことは、気候危機と闘う若い世代がマルクス主義の可能性に目を向け、批判的に検討し再評価する流れを作り出している。実際、気候正義を求める闘いは、資本のグローバル化と格差の驚異的な拡大に対する闘いと結びついて展開されている。
ソ連邦の崩壊は、マルクス主義を批判し、歴史の彼方に葬ろうとしてきた思想の流れを強化したが、その流れに抗して、「脱成長コミュニズム」を提起する斎藤の功績は、理論的な分野にとどまらず、実践の分野でも大きな可能性を切り開いている。われわれはこの新たな世代と共に歩みながら綱領的議論を深めていかねばならない。
問題は「思想的ルーツ」ではない
斎藤幸平は、マルクス晩年のノートの精細な研究をつうじて、マルクスがその晩年に「生産力主義」を捨て、エコロジストになったことを明らかにした。しかし、斎藤によれば、晩年のマルクスの理論的な営為は、後世に伝わらなかった。盟友であるエンゲルスはマルクスの晩年の研究の重要性を十分理解できなかった。第二インターナショナルの時代のマルクス主義者も、レーニンやトロツキーも、正統マルクス主義(スターリニズム)も、スターリニズムを批判した西欧マルクス主義も、「生産力主義」にとらわれ続けた。
「もし実際にマルクスが脱成長コミュニズムを提唱したのなら、なぜこれまで誰も指摘しなかったのか、そしてなぜ、マルクス主義は生産力主義的な社会主義像を支持してきたのだろうか、と疑問に思うかもしれない。だが、実はその理由は簡単で、「マルクスのエコロジー」が長い間無視されてきたからである」(「マルクス解体」)。
この斎藤の文章は、残念ながらトートロジーであり、自ら提出した問いに答えていない。なぜ「無視されてきた」のか、それが問題であるはずだ。「資本論」が、マルクス自身の手によって完成していれば、そこに晩期マルクスの研究成果が明確に「エコロジー」と「生産力主義批判」として表明されていれば、レーニンやトロツキーは、「生産力主義」に陥ることなく、社会主義建設の第一歩を踏み出しえたのだろうか。
ソ連邦は、「生産力主義的な社会主義」として70年間存在した。スターリニスト官僚の支配に抵抗する人々を中心に、くりかえしソ連邦の深刻な環境汚染が指摘されてきた。しかしスターリン主義を批判するマルクス主義者が、ソ連邦の官僚主義と専制支配を攻撃しても、その「生産力主義」を批判しえなかったのはなぜなのか。
問題は、「生産力主義」として批判されている思想的傾向が、マルクス主義者の中で連綿と存在し続けたことの社会的、経済的、あるいは政治的基盤は何であったかを問うことではないだろうか。思想的傾向を、思想そのものの理論的陥穽や内的な進化、あるいはその思想的ルーツの探求や文献解釈によって説明することは、マルクス主義の方法とはいえない。ダニエル・ベンサイドの表現を借りれば、「われわれは、イデオロギーの舞台を乗り越え、その舞台で動き回る影から離れた上で、歴史の奥にまで分け入らねばならない」のである。
資本主義と「生産力主義」
社会の諸階級への分化を最初に生じさせたのは、一連の農業革命(灌漑、休耕、水田、動物の馴致など)と、後に冶金革命(金属農具)による農業生産力の発展だった。生産力(=技術)の発展は、社会的剰余生産物を、したがって社会的労働の節約、労働時間削減の可能性を生み出す。しかし支配階級は、生産力の発展の成果を、生産者の労働時間の削減と福祉にではなく、支配階級の利益を増やして支配を強化することに結び付ける。同時に、支配階級への富と権力の集中は、生産力をさらに増大させる。河川改修、運河、道路網、上下水道、そして都市への人口集中、手工業と商業(貿易)の発展、法律、簿記・・・等々。生産力の発展は、人類の「進歩」の原動力だった。
しかし、資本主義以前の半ば「定常的」な社会と異なり、資本主義社会は、不断の技術革新によって生産力を増大させ、利潤を確保しようとする資本の運動と発展の内的論理によって運命づけられている。資本のたえざる競争は、資本の有機的構成の高度化と利潤率の低下傾向をもたらす。それを反転させるための、剰余価値率の上昇と不変資本価格の低下とを可能にする階級的攻撃と植民地経営、飽くなき資源採取と環境破壊、平均利潤率よりも高い利潤率を実現できる部門への資本の集中・集積、超過利潤を生みだす独占の形成、グローバル化と国際水平分業・・・資本の運動は、利潤の極大化の衝動に貫かれている。だからこそ「生産力」は、「主義」という接尾辞と結合する。
「生産力主義」は資本主義に特有のものである。斎藤幸平が何度も強調するように、資本が支配する社会では、「生産力の発展」は、利潤の拡大を唯一の基準とすることで、人間社会と自然環境との「物質代謝」に修復不可能な「亀裂」を作り出す。
革命の現実的可能性
生産力(=技術)「そのもの」の没階級的な発展は、とりわけ資本の支配のもとでは、ひとつの抽象にすぎない。すでに19世紀の末には、スウェーデンの科学者が「人間活動によって大気中のCO2が増加し、その濃度が2倍になれば、地球の温度はおよそ5 度上昇する」ということを指摘している。この時点で、化石燃料の使用について、ブレーキをかけることができただろうか? 19世紀末から20世紀初頭、重化学工業の急速な発展が、資本主義の「怒涛の発展」の時代を生み出し、人間の社会生活に革命的な変化をもたらした。電気と電信、化学繊維と化学肥料、自動車とトラクターと航空機・・・。技術革命(生産力の発展)は、人間の未来を明るく照らすかに見えた。軍備拡大と戦争の恐怖の雲の下で。
重化学工業の発展は同時に労働組合運動の急速な発展を生みだし、第二インターナショナルは強力に前進する。組織された労働者階級の急激な増大は、マルクス主義者にとって、まさに「資本主義の墓堀人」(プロレタリアート)が、強大な力で歴史の前面に登場したことを意味した。社会主義革命は、遠い将来の日程ではなく、目の前の現実的可能性だった。
資本が、スウェーデンの科学者の警告を無視したのと同様に、この時代のマルクス主義者にとって、生産力の発展は、社会主義革命のための条件を準備するものだったのである。大気や河川の汚染がますます深刻になっているとしても、彼らがあえて、「生産力主義」に異議を唱え、ましてや化石燃料の使用にブレーキをかけるべきだと主張することはありえなかった。科学者の警告に注目したとしても、目前に迫る社会主義革命が、問題を解決する方向へ導くはずだと考えただろう。気候変動が人間社会にどのような影響をもたらすのか、科学的知見が広まる半世紀以上前の時代である。
ロシア革命の孤立と「生産力主義」
生産力(=技術)の発展は、社会的労働の節約、労働時間削減の可能性を生み出す。トロツキーに言わせれば、「時間」とは「最も尊い文化の原料」である。人間の「歴史とは、元を正せば労働時間の節約の追求以外の何物でもない。社会主義は、搾取の廃止ということだけでは正当化されないであろう。社会主義は、資本主義に比べて時間のより高度の節約を社会に保障しなければならない。この条件が実現されない限り、搾取の廃止そのものは、未来を持たないドラマのひとつのエピソードにとどまるであろう」(「裏切られた革命」)。
レーニンやトロツキーが生きた時代、社会主義社会を生産力の一層の発展を基礎にして築かれるものとして構想することは、当然のことであり疑いようもなかった。レーニンは「社会主義とはソビエトプラス電化」だと、宣伝文句風に単純化して表現したが、電気、上下水道、鉄道、舗装道路などの社会インフラや農業用機械などを、全地域・全住民に提供しうる生産力の水準は、ヨーロッパ規模ではすでに達成できていても、ロシア一国では、はるか将来へ向けた目標であった。ボルシェビキとロシアの労働者階級は、ドイツをはじめとするヨーロッパの先進資本主義諸国で労働者が権力を握り、(ロシアの豊富な天然資源を担保に)先進的な生産手段が提供され、技術者の協力を得て、工業と農業の生産力が格段に発展することを期待したのである。しかし、ドイツ革命は敗北する。
「社会主義は、搾取の廃止ということだけでは正当化されない」。資本主義の「最も弱い環」であったロシアで、労働者階級は資本の権力を打倒して搾取を廃止することが可能となった。しかし、ヨーロッパの先進資本主義の生産力(=技術)から切断され孤立した革命ロシアは、すべての住民に、病院や託児所、幼稚園や学校等々の基本的な社会的なサービスを提供する物質的な基盤(つまり生産力)を持っていなかった。連帯と相互配慮に基づく社会主義社会の実現をめざすボルシェビキの綱領は、「絵に描いた餅」となった。革命ロシアは、文字通り、胃袋を十分に満たすことさえできない状況から出発したのである。
革命ロシアは孤立し、内戦を闘い、外国帝国主義の軍事干渉と闘わざるを得なかった。しかし、軍事的脅威に勝るとも劣らない脅威は、先進資本主義諸国との生産力の圧倒的な格差だった。
生産力の差は、農業と工業の生産性の差であり、商品の原価の差であり、当然軍事力の差である。「価値法則」が、孤立したロシアの経済を万力のように締め上げる。ソビエトの工業製品は外国では売れない。農業の生産力は都市住民に安価な農作物を十分に提供できる水準とは程遠い。農機具は高価で、外国製品に比べて機能が劣る・・・。マルクス主義者が、「生産力の発展」を問題視するようなイデオロギーの物質的基盤はありえなかった。「生産力主義」という概念が、思考に入りこむ余地はなかった。
スターリニズムと「大いなる競争」
スターリンの死後も「大いなる競争」(アイザック・ドィッチャー)の時代が続く。
「ソビエト外交は、2つのブロックの間の現状の境界線を『凍結』しようとしている・・・ソ連はさらに10年に15年の時を稼ごうと努力している。そしてこの期間に、西側との決定的な、公然たる勝負をやるための準備をするつもりなのである。『公然たる勝負』とはどういう意味か・・・相対立する社会制度の間の闘争においては、能率が優れ、社会の生産力を展開し、人間の創造的エネルギーを解放する能力が勝っている制度が必ず勝つ、とマルクス主義者は考える。最近まで、ソ連は下手にこのようなテストに応じたりしたら、負けるに決まっていた。・・・過去40年間のボルシェビキの政策は、このようなテストを回避すること、もしくは先へ引き伸ばすことを狙った。スターリンの孤立主義も、保護貿易政策主義も、鉄のカーテンも、みんなこの危険を寄せ付けないようにし、ソビエト国民を西側のいっそう高度な能率と、より高い生活水準の衝撃に対して、免疫にしておくためのものであったのである。・・・だが、この時代は終わりに近づいている。ソ連があと10年経たないうちに、アメリカ合衆国と経済的に同格になろうと望んでいることは周知の通りである。1965年までにはソビエト・ブロックは世界の工業生産の半ば以上を生産するようになる、とソ連は期待している」(「大いなる競争」)。
孤立した歴史上最初の「社会主義国」は、生産力を、先進資本主義諸国と競争しながら発展させなければ存立できなかったのである。スターリンの強制的な農業集団化や「スタハノフ運動」は決して正当化しうるものではないし、そして、バイカル湖の深刻な汚染や「ウラルの核惨事」やチェルノブイリ原発の事故を、不可避であったということは決してできないが、政治的軍事的に競合する先進資本主義諸国の生産力の水準に追い付くことは、至上命題だった。正統派マルクス主義(各国の共産党)はもちろん、マルクス主義者が全体として、スターリン主義を批判したマルクス主義者も含めて、「生産力主義」を支持し、受け入れ、あるいは批判できなかった歴史的根拠のひとつがここにある。
アイザック・ドイッチャーは、1926年のトロツキーの原子力利用への「予言」を伝えている。「放射能の現象は原子内部のエネルギー解放の問題へ、一直線に我々を導くものである。・・・その時こそ原子エネルギーは、我々の基本燃料や動力となり、石炭や石油にとって変わることができるであろう」(「武力なき預言者」より)。そのドイッチャー自身は、1960年に「原子力燃料の発達によって、石炭と石油の重要性は減っていくだろう」(「大いなる競争」)と書いている。
広島と長崎の惨禍の15年後に! しかも核戦争の危機が、その現実性が目の前に迫った時代に・・・。まるで子供たちが「鉄腕アトム」にあこがれたような、この無邪気な楽観主義は、核技術の民生利用が、まだただの「夢」(もうすぐ正夢になりそうではあったが)にすぎない時代であることを、割り引いて評価しなければならないのだろうか? それが実用段階では、水を沸騰させて電気を作ることしかできない代物であり、石油や石炭に替わりうるものではないこと、そして「安全性」に決定的な欠陥があり、数万年に及ぶであろう廃棄物の処理(管理)は困難極まり、核爆弾の新たな材料を備蓄することにしか用途がないこと、つまりそれは核兵器にしか利用できないテクノロジーであり、むしろ生産力の犯罪的な浪費である等々といった原子力発電の問題性は、まだ明らかになっていない。
しかし、20世紀を代表する2人のマルクス主義者の原子力への無邪気な期待は、資本主義の新たなテクノロジー(生産力)の評価に際して、あまりに慎重さを欠いているといわざるをえない。彼らが、マルクスの晩期の研究に注目できていれば、もう少し慎重になりえたのだろうか? しかし、「大いなる競争」は、この時代を支配した。マルクス主義者は、自己の「生産力主義」を対象化し、批判的に再検討することができなかった。
レイチェル・カーソンの「沈黙の春」が出版されて、50万人を超える読者を獲得するのは、1962年である。
高度経済成長と反公害闘争
「大いなる競争」の時代の後半は、「高度経済成長」の時代である。冷蔵庫、洗濯機、テレビ、クーラー、自家用車、ローンで手に入れるマイホーム・・・。労働者階級の、少なくとも中心部の組織された層の、「生活水準」は向上した(とりわけグローバルノースにとって)。それは紛れもなく「経済成長」の恩恵だった(新植民地主義とサウスでの収奪の基礎の上に)。それは、反資本主義の諸勢力、マルクス主義者、左派政党、労働組合等々が、「生産力主義」に疑問を抱くことを困難にした。
60年代末から70年代にかけて、工業化の進展が生み出した環境破壊(公害)の深刻化によって、人類の文明そのものが危機に瀕していることが、日々明らかになっていく。反公害運動が高揚し、高度経済成長を実現した資本主義の「生産力主義」が、深刻な環境破壊を引き起こしていることを告発する。ようやく、生産力の発展と経済成長(の神格化)への疑問が、正統マルクス主義から距離を置く60年代末の学生反乱の世代から台頭する。
70年代中期に、アンドレ・ゴルツは、「エコロジスト宣言」の冒頭でこう述べている。
「成長の資本主義は死んだ。これと兄弟のように似ている成長の社会主義は、我々の未来のではなく、我々の過去の歪んだイメージを我々の前に映し出している。マルクス主義は分析の道具としては相変わらずかけがえのないものであるが、その予言的な価値を失った」「工業化社会はこの150年来、それが構成されるのに数千万年を要した自然のストックを加速度的に略奪することで生命を保ってきた。しかも、つい最近になるまで、経済学者たちは古典派であろうとマルクス派であろうと、非常に長期の未来に関する問題を、つまり地球という惑星の問題、生命圏の問題、諸文明の問題を、〈退行的〉ないし〈反動的〉であるとして退けてきた。・・・しかし、科学と技術は、次のような決定的に重要な発見をするに至った。すなわち、あらゆる生産活動は、この惑星の限りある資源からの借用と、複雑な均衡から成り立つ脆弱な体系内部での交換とに依存して行われている、という発見である」(「エコロジスト宣言」)
「気候危機」は、まだ問題になっていない。しかし、「石油危機」が資源の有限性について警鐘を鳴らしたこの時期、資本主義的生産力の発展の末に行きついた文明の危機の性格は、現在のそれと全く同じ位相にある。斎藤幸平が明らかにしたように、マルクスはすでにこの150年前に、「あらゆる生産活動は、この惑星の限りある資源からの借用と、複雑な均衡から成り立つ脆弱な体系内部での交換とに依存して行われている」こと、そして資本主義がその「物質代謝」に「亀裂」を作り出していることを認識していた。
問題は「テクノロジーそれ自身」
われわれはこの危機の性格について、真剣に掘り下げて議論することができなかった。エルネスト・マンデルが、「後期資本主義Ⅲ」の中で「・・・人類の生存を危険にさらしているのは、科学と現代テクノロジー「それ自身」ではなく、それらの資本主義的組織化と利用」だと、マルクス主義者の伝統的で原則的立場を繰り返したのは、60年代末だ。しかし、問題にされているのは、現代テクノロジー「それ自身」ではなかったか。
〈高度経済成長は「豊かな社会」を築いたが、公害を深刻化させた。しかしそれは、「テクノロジーの資本主義的組織化と利用」の問題だ〉―この立場はまさにこの時代の「支配的イデオロギー」とパラレルな関係にある(ローマクラブの「成長の限界」が出版されたのは1972年)。「反資本主義」であるがゆえに決して交わることはないが、しかし同じ流れの中に漂っている。マルクス主義者の多くは、「豊かな社会」がグローバルサウスでも実現されるべきだという希望も含めて、「生産力の発展」に期待し、工場排水を浄化する技術や「省エネルギー」技術に期待して、「進歩の基本的原動力としての技術の発展から出発し、生産諸力の動力学の上に」新しい社会を築くことを展望したのである(実際には「公害」はサウスに「輸出」された)。先進的な科学者やエコロジストの貴重な警告にもかかわらず、マルクス主義者は自己の「生産力主義」を対象化できずに、「支配的イデオロギー」の流れに逆らって泳ぐことができなかった。
資本主義は「生き延びすぎた」
社会主義社会のための物質的諸条件は、とうの昔に、資本主義社会(世界的規模で)の中で準備されているが、資本の権力を打ち倒す革命は、「後進国」でしか勝利できなかった。別の言い方をすれば、資本主義は「生き延びすぎた」のである。「スターリニズム」と「生産力主義的マルクス主義」は、「生き延びすぎた資本主義」の双生児である。
先進資本主義諸国の革命は、主要に革命主体の指導部の堕落と数々の犯罪的裏切り(社会民主主義とスターリニズム)によって一連の敗北を喫した。危機に直面して資本は、幾度か「脱皮」し、新たな「甲羅」を作り出して生き延びた。
資本主義的生産力の発展は、環境破壊を引き起こし、技術の発展方向を捻じ曲げ、労働過程での人間の主体性を奪い、大量生産を維持するための大量消費を強制し続ける。生産力は「地球の限界」さえも超えてしまった。人類の「進歩」の原動力であり、「豊かな社会」を築くはずだった生産力(=技術)は、格差をますます拡大し、膨大な資源と労働力を浪費している。「経済成長」は未来の世代に、とてつもなく大きな「マイナス生産力」を、負債を残し続けている。生産力の発展、つまり技術革新と経済成長は、人間の社会を「退化」させている。セルジュ・ラトゥーシュは簡潔に指摘する。「ある一定の閾値を超えると、国内総生産の増加は豊かさを減少させる」(「脱成長」)。
「生産力主義」の「社会主義」は崩壊した。「大いなる競争」に資本は勝利した。「IT」とインターネット、産業ロボットが、生産性の格差を決定づけた。同時に、資本のグローバル化が急速に進み、ロシア革命のインパクトと戦後の高度経済成長の過程で労働者階級が獲得した諸権利や福祉諸政策に対する新自由主義の階級的攻撃が始まる。その資本の運動と踵を接して、「気候危機」の現実が喧伝され始める。「気候危機(CO2主因の温暖化)」は、原発推進派や自動車産業や家電メーカーにとっての「福音」となったが、左派にとっても資本の支配を攻撃する格好の「材料」となった。実際それは、反資本主義的な諸々の社会的運動主体の共通認識となった。ヨーロッパとアメリカの青年層の「気候危機」に対する大衆運動の高揚を背景に、マルクス主義は、理論的・綱領的レベルでの再構築を迫られる。資本の「生産力主義」「経済成長至上主義」に対する批判は、自己の「生産力主義」に跳ね返る。
新たな経済成長は不要
「気候危機」に直面して、資本は「化石燃料の大量使用」に依拠するテクノロジーから「脱皮」し、新たな「甲羅」を作り始めた。今や、「エコロジー」や「脱炭素」や「持続可能性」は「社会課題」であり、投資の優良銘柄である。メガソーラーや巨大な洋上風力発電、小型原子炉、核融合、電気自動車、自動運転車や空飛ぶ自動車、リニア、スマートシティ、ロボットとAI・・・。しかし、われわれに必要なのは、「グリーンニューディール」という「新たな成長」や「緑の資本主義」ではない。
マンデルは、社会主義について論じた著書の中で、「経済成長」が停止する可能性について書いている。「・・・経済成長はそれ自体において目的ではない。目的は、あらゆる人間的可能性の最適の合理的発展を視野に入れて、社会の欲求、消費者の欲求を満足させることである。消費の最適度が無制限の消費増加を少しも意味しないのと同じように、人間的欲求の満足はそれ自体、生産諸力の継続的、無制限的発展を意味しない。社会が予想外のことに立ち向かうために、多目的の工作機械の充分な保留を含む、そのあらゆる当面の欲求を満たすための十分にゆとりのある自動機械類を随意にするであろう時、おそらく経済成長は緩慢となるか、あるいは一時的に停止したりもするだろう」(「現代マルクス経済学」Ⅳ)。
マンデルがこの文章を書いてから、60年以上が経過した。「あらゆる当面の欲求を満たすための十分にゆとりのある自動機械類」は、生き延びすぎた資本主義の「生産力」によって、すでに地球上に過剰に存在する。60年前の「自動機械類」は、現代の生産現場に実装されている産業ロボットなどと比較すれば、おもちゃのようなものだろう。すでに生産力は、地球上の全人口に基本的な衣食住と社会インフラを確保し、かつ大幅な時短を実現する水準をはるかに超えているはずだ。新たな技術革新と経済成長は、全く不要であり害悪でさえある。
科学と技術開発の方向性、その生産への応用は、資本主義社会の中で「中立的」なものではあり得ない。資本主義は、自身の「甲羅」に合わせて技術を開発し、生産に適用する。ゴルツは、「異なるテクノロジーのための闘いなしには、異なる社会のための闘いは不毛である」と断言する。現代テクノロジー「それ自身」を、取捨選択し、発展の方向性に異を唱え、「異なる社会」を構想する闘いは、社会主義の彼岸において始められるのではなく、現在の反資本主義闘争の此岸で、変革主体の労働と消費生活と文化の刷新を求める集団的努力として取り組まれねばならない。
「異なるテクノロジー」のための闘い
今、先進資本主義諸国の「株価バブル」を主導しているのは、「AI」による技術革新と生産力の発展(の可能性)である。「AI」が象徴する新たな技術革新と生産力の発展は、労働の一層の単純化(マニュアル化)とホワイトカラー層の大量解雇をもたらすだけでなく、人間の知的能力を退化させるだろう。その代わりにそれは、ますます数を減らす労働者の上層部に一定の「時短」を可能にし、その外にますます増える下層労働者と偽装フリーランス、ギグワーカーに、細切れの長時間労働(ダブルワーク、トリプルワーク)を余儀なくさせるだろう。
全ての技術革新は、時短と省エネにつながることが前提であり、人員削減と環境への負荷の増大は許されない。生産とサービスの現場に実装されるすべての技術は、労働者の裁量権を優先し、労働密度を低下させるものでなければならない。労働者の肉体と精神への過重な負荷を軽減する技術であっても、労働をロボットに従属させのものや、アルゴリズムに従属させるものであってはならない。
マルクス主義者は、「AI」が象徴するテクノロジーの発展の方向性、テクノロジーの選択に反対し、人間にとって、人間社会(将来の世代の社会も含む)にとって、本当の「豊かさ」とは何か、利用可能な技術をどのような基準で取捨選択するのか、労働運動や市民運動の担い手たちと共に、議論を深めていかねばならない。それは、社会的運動の方向性と「脱成長社会主義」を構想するための新たな綱領的議論の不可欠の一部であるはずだ。
世界的な「株価バブル」を反映して、世界の主要株式市場に上場する企業の時価総額は、今年5月末で113兆9832億ドル(約1京7600兆円)に達した。この想像を絶する天文学的数字は、グローバルサウスの貧困と飢餓の問題が、何よりもまず「分配」の問題であることを端的に告発している。あふれる余剰資本は、人類全体の福祉へ向かうのではなく、AIが主導する技術革新と新たな経済成長への投資へ向かい続けている。必要とされているのは、経済成長ではなく、人類の福祉と地球環境の保全へ向けた「分配の正義」である。
「消費の最適度が無制限の消費増加を少しも意味しないのと同じように、人間的欲求の満足はそれ自体、生産諸力の継続的、無制限的発展を意味しない」。
(7月1日)
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