沖縄県内市町村の中国での戦争体験記を読む(99)

  日本軍による戦争の赤裸々な描写

 今号で紹介する北谷町の花城さんは、戦争末期に満州の関東軍に配置され、敗戦、ソ連軍の捕虜となりシベリアでの収容所生活、帰還に至る経過を証言している。引用は原文通り、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。

『戦時体験記録 北谷町』(1995年)

花城可盛「シベリア収容所体験」

 戦前大阪に三年ほどいた。兵隊にいくときは一旦沖縄へ帰り、沖縄から入隊した。昭和二十(1945))年に入ってからだと思う。福岡に集合して、それから朝鮮の第28部隊で三か月の教育を受け、関東軍396部隊へ編入された。
 ソ連軍の攻撃を受けて朝鮮付近まで退却し、逃げられなくなって、露満国境でソ連の捕虜になった。それからすぐ汽車でウラジオストックへ連行された。途中で逃亡したのもいたが助からなかった。……
 捕虜になってシベリアに行ったのは、昭和二十年十一月になってからかな。八月十五日が終戦で、ダイカン省(満州)で武装解除された。シベリアには昭和二十年十一月から同二十三(1948)年十一月までの三年ほどいた。あの当時シベリアでは、吉田正作曲の「異国の丘」という歌が流行していて、そればっかり毎日歌っていた。集団で仕事をしながら、また仕事を終えて帰りながら歌っていた。……
 夏はコルホーズ(集団農場)やソホーズ(国営農場)で働いて、冬には山に木材の伐採に行った。私たちはその当時24才くらいだったから、バリバリ働いていたが、部屋に帰ってくるともう寒くて大変だった。ペチカで部屋中暖房してあるのだが、なんせ十一月に来たものだから、気候そのものが日本人には合わない。火のある間はいいが、焚くのがなくなると冷えて、便所を何回も通い尿ばかり出していた。私たち若い者でも、4、5回は行く。召集兵で少し年を取っていて、体のちょっと弱っている人は10回も行く。10回というと一時間に1回は行くことになる。そういうことだから、寝つくまで用足しに通うことになり、それで体が弱って栄養失調でなくなる人たちがいた。……
 食べ物はわりと優遇されていた。なぜかと言えば、満州から調達してきた日本の米や、ソホーズのトマト、じゃがいもなどはある程度持って帰れたからね。また養豚や養鶏の盛んな街にも近かったものだから、そういう面で食糧はわりかしよかったと思う。当時は黒パンの配給があり、それをためておいて、まとめて売って小使いにしていた。現地の人に売る。それほど現地の人たちは不自由していた。
 一日の労働時間は、朝8時半から5時までだったとおぼえている。
 日本人ではちょっと耐え難かった。というのは、零下30度ぐらいになると防寒外套を着けているので、動いたり歩いたりすると汗をかいてしまう。汗をかいてしまったらたいへんなんだ。防寒靴、靴下をはいているとき汗をかいたら、それが凍ってしまう。
 シベリアの寒さには勝てない。どんな防寒服を着けてもマイナス30度ぐらいになると痛くて、1分じっとして立っていられない。仕事にいくときなど防寒服を着ていると、ムクムクしているから、トラックの荷台に足がスムーズに上がらない。それに凍傷というのが怖い。凍傷というのは指先なんか真っ白くなる。かゆみ、痛みがある間はいいが、感覚がなくなったらたいへんだ。白くなって行き、しまいには腐ってしまう。
 シベリアの生活を3年ほどして、帰国が始まるようになった。はじめのころは、体の弱い人から先に帰っていた。だが、元気で働いている人たちでも、そのままバリバリ働いていると帰れなくなるのではないかと、状況判断をして、病人だと嘘をついて先に帰ったりしていた。
 ところが、やがてそれをソ連側が見ぬくようになり、「そんなずるい奴は帰すな」ということで、今度は成績のいい、よく働く者から帰すようになった。第2回目は喜納宗盛さん(中城村出身)、私たちは第3回目に帰国した。……

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