パラリンピックと渋沢栄一

コラム「架橋」

 コロナ禍の中で『パラレルワールド』と言われたオリンピック・パラリンピックが終わり、日本人選手のメダル獲得を寿ぐマスコミの『明るい』話題がようやくなくなりつつある。
 その報道のなかで、NHKによる選手へのインタビューを聞いて違和感を感じたことがあった。
 パラリンピック競泳で銀メダルを2つ獲得した山田美幸さんへのものだ。
 彼女は生まれた時から両腕がなく、両足にも障害があり、本人曰く「わかめのように泳ぐ」背泳ぎでのメダル獲得。その屈託のない明るい笑顔が、真摯に水泳に向き合ってきたことを示していた。
 インタビュアーに座右の銘はと話題を向けられ、「無欲は怠惰の基である」と述べた。
 渋沢栄一の言葉である。日本帝国主義を離陸させ、明治・大正・昭和と続く戦争の時代を準備した、日本資本主義の父と言われる人物である。
 「無欲というのは本気でやっていないからだと思う。私だったら『メダルを取りたい』という思いがあって、何事も本気でやって自分の願いに素直に向かっていきたい」と彼女は言う。
 もちろんその言葉には嘘はなく、心の底から出たものだろう。しかし14歳、中学3年生が内面化している渋沢の言葉。私には、その言葉が新自由主義が期待している労働者像のように聞こえてくる。
 1997年、経済同友会が発表した提言「こうして日本を変える──日本を変える具体策」には以下の文言がある。
 「わが国では、規制によって保護された企業・個人と規制を企画・運用する行政部門が既得権益に固執し、改革の急速な進展を阻んでおり、改革が遅々として進まない。わが国がこのまま旧システムを改革できずにいるならば、間違いなく、グローバル市場の中で取り残されていくことになる」と述べ、構造改革を実行に移せば、超過利得の喪失、競争激化、労働強化、自己責任を問われる、といった多くの痛みが発生すると予想した上で、その痛みに対応し、解決するのは「各人の自助努力」だと説く。
 「自己責任論」と親和性の強い「自己啓発」の思想によって、自分の人生に降りかかる不遇に対し、労働者は「社会が悪い」「他人のせいだ」とは考えず、「自立心」を持った「自助努力」を行う強い人間像をひたすら追うことになる。
 労働問題の研究者である熊沢誠は「強制された自発性」という言葉を使っているが、その最悪の結果が「過労死」である。企業は個々の労働者に「強い自己」と「自己責任」を求め、労働者はそれを内面化して、要求に応えられない自らの「弱さ」や「無能さ」を自分自身の責任に帰すようになる。
 新自由主義とは、デヴィッド・ハーヴェイの定義によると「強力な私的所有権、自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で個々人の企業的活動の自由とその能力とが無制約に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する、と主張する政治経済的実践の理論」となる。
 こうしたイデオロギーによる結果として、既存社会の安定は崩れ、社会統合の破綻が顕になり「格差社会」「ワーキングプワー」という言葉が使われるようになった。
 ミシェル・フーコーの支配の概念「生政治」。権力による監視と管理が個々人の内面にまで浸透し、支配的秩序が自発的服従によって支えられている状態を指す言葉であるが、オリ・パラの持つ思想の根底には、国民統合基盤の強化のための支配層の「隠された強制」を感じるのである。 (莽)

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