沖縄・県内市町村の中国での戦争体験記を読む(108)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する北中城村の大城さんは、徴兵検査で甲種合格してから1939年、久留米輜重第18連隊への入隊、中国大陸への派兵、転戦、負傷除隊、帰還、結婚、沖縄戦の経過を証言している。引用は原文通り、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。(沖本裕司)
『北中城村史』第4巻「戦争・証言編1」(2010年)
大城永加
「南寧作戦に従軍して重傷」
私は、大正七(1918)年に中城村和仁屋で生まれ、兵隊に行くまでずっと古里で暮らしてきた。私は四男三女の七人兄弟で、兄が二人、姉が一人、真中に私、私の下に弟と二人の妹がいた。次兄はフィリピンに移民をして太平洋戦争で亡くなった。姉はペルーに、妹(次女)はブラジルに移民をした。
私は昭和十三(1938)年に二十歳となり徴兵検査を受けた。……沖縄連隊区司令部から徴兵官と軍医が来て、身体検査は目・鼻・口・内臓・手・足・その他、性病の検査までおこなわれた。徴兵検査の結果は甲・乙・丙・丁とランクがつけられ、甲種に合格した者は直ちに入隊する決まりであった。これを「現役」といったのである。今では、受験生がストレートに進学する場合に現役といっているが、軍人みたいで変な感じがする。
とにかく私は「めでたく甲種合格」となり、翌年の昭和十四(1939)年六月には久留米輜重第18連隊に入隊することになった。私たち新兵は、県の兵事課の職員に引率されて久留米まで行き、軍隊に引き渡された。……
昭和十四年八月、いよいよ中国に渡ることになった。門司から上海へ渡り、揚子江をさかのぼって、南京を経て漢口に上陸した。……湖北省の省都で現在の武漢市である。武漢からさらに奥地へ進んで二か月ほど過ごした。
十月に入って部隊は中国南部の南寧へ移動することになった。南寧は中国と仏領インドシナ(現在のベトナム)の国境に近く、トンキン湾から150キロほどのところにある都市である。……そのころ、仏領インドシナから国境を越えて軍需物資を運び込み、中国の蒋介石を支援する輸送ルートができていた。これを「援蒋ルート」といっていた。……南寧は援蒋ルートの最大の拠点であった。南寧作戦の目的は、この援蒋ルートを断ち切ることであった。……
年末にはふたたび南寧に移動し、部隊は山地に入って中国軍を追撃して行った。ところが、中国軍は、日本軍の予想をはるかに上回る30万の大兵力で反撃してきた。明けて昭和十五(1940)年一月二十日、敵の砲撃を受けて私は右足に重傷を負い、意識不明になった。担架で南寧の野戦病院に運ばれ一か月ほど入院した。意識不明のうちに、私は右足を切断されていた。命の代わりに右足を切られたわけであるが、これで私の人生は大きく変わった。……
短い軍隊生活であったが、片足切断という重傷を負って、私は除隊することになった。昭和十六(1941)年の春になっていた。階級は二等兵から一階級あがって一等兵になった。第一陸軍病院を退院するにあたって、天皇から「恩賜の義足と杖」が下賜された。私はこの記念の品を大事に取っておいた。普段は市販の義足と杖を使った。……
帰郷した年の秋に私は結婚した。妻のトヨも和仁屋の出身で和歌山の紡績工場から帰ったばかりであった。私もトヨも親の勧めに応じて結婚を決意したのである。食糧も衣類も厳しく統制され、貧しい結婚生活であった。……
沖縄戦のはじまる前に、中城村では久志村への疎開計画があった。私たちはヤンバル疎開をせず、両親と兄夫婦の家族といっしょに、渡口の壕にかくれていた。……具志頭村の新城では、妻のトヨが肩に砲弾の破片を受け、骨が出るほどのけがをした。治療もできないままに逃げ回っているうちに、傷口にうじがわいた。障害のある夫を支えて戦場をさまよった妻の心の内を思うとあわれである。近くにいた友軍の兵士に薬をつけてくれと頼んだら、芋をくれたら薬をやろうといわれたので、芋と交換に薬をつけてもらった。
私たちは、最後は摩文仁部落にたどりつき、隠れる場所もないので木の枝や草で偽装をして米兵の目をのがれていた。摩文仁では、砲弾によって母と長兄の子どもが死んだ。
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