真夏の惨事 (1)

コラム「架橋」

 7月末の日曜日の未明。隣家を火の元とする火災で私の実家が全焼した。2階に寝ていた弟の枕元の窓から炎が飛び込み、弟は夢中で1階へ降り、玄関と反対側の勝手口から裸足で逃げ出した。1階に寝ていた妹は多少の余裕があったのか、通帳など数冊を持って同様に外に出た。
 朝6時過ぎ。スマホの電源を入れた私は、弟からのLINEを見て血の気が引き、連れ合いに「大変なことになった」と告げ自転車に飛び乗った。実家の南側には公園があり、消防隊、警察、消防団、避難した住民、野次馬らで騒然としていた。あたりには白煙が立ち込め、焼け出された家族らが園内数か所で身を寄せていた。弟は両足を薄いビニール袋で包み、妹は小さなバッグ一つだけを持っていた。
 母が施設に入った10年前から、私は実家には用がなくなっていた。一昨年4月の母の他界以降、兄弟姉妹たちの疎遠状態は完全に復活していた。2年3か月ぶりの実家への帰宅は、最悪の形となった。
 20年前。実家を出る際に、私は自分の蔵書や、フイルム、アルバム、楽器、レコード、ビデオ、卒業文集の類を、2階の部屋に残していた。それらのうち、火元に近い弟の部屋にあった物は焼失し、火元から離れた自室の押し入れに収納していた物が、滅失を免れた。
 母は生前、火災保険を短期間掛けただけで解約していた。火元に住む高齢の夫妻とは連絡が取れていない。50余年前、借地上の建売住宅を買った4軒の家族だった。近隣には、長子とその兄弟姉妹たちが、それぞれ同級生という関係も少なくなかった。
 体ひとつで焼け出された弟妹は、区内の公共施設に一週間身を寄せた。役所の区民施設課が提供した。利用者の予約が入っている時間帯は部屋を空け、冷房が壊れた実家近くの町会会館で過ごしていた。
 この国の「失火責任法」は、火元に類焼家屋と人命への賠償を義務づけていない。保険会社が掛け金を運用し、摩天楼のような高層ビルを林立させる所以である。
 天災や人災の被災者たちを「着の身着のまま」と形容することが、よくある。しかしその実態に対しては、非被災者たちの理性や良識に基づく、深くてこまやかな想像力が必要である。    (隆)

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