真夏の惨事 (2)
コラム架橋
白煙と、ススの匂いと、放水で泥に濡れた公園は、被災者と近隣住民、野次馬らでごった返していた。
住民らで組織された消防団のリーダー格のA。彼を子供の頃から知っている私は、数十年ぶりの再会となった。消防署員と罹災者の間に立ち、火災の経過を詳しく話してくれた。彼の私に対する多弁さには、懐かしさももちろんあるだろう。一方でそれは、今日までこの地に住み続けた弟妹たち、あるいは近隣の人々が、有事に備えてつながってこなかったことの裏返しでもあろう。
やがてカメラを抱えたメディアのクルーが次々と現場に到着した。だが彼らも公園内で足止めされ、現場に近づくことはできなかった。未明の出火直後、北側のマンションの住民がベランダから撮影した映像がNHKで流された。弟が寝ていた枕元の窓から炎が勢いよく飛び出していた。これが私の家なのだ。
この地域は、都内有数の政権与党の地盤であった。罹災家族も宗教活動をしていた。現場にはいち早くK党都議と衆院議員秘書が訪れた。二人は「都営住宅云々」と口にしながら、愛想よく私に名刺を差し出した。後日そこに記された電話番号やアドレスに何度もアクセスしたが、いっさい反応がなかった。
警察と消防が現場への規制線を解いたのは、その日の夕方だった。だが、いったい何を確認するか。L字型の路地の手前には類焼を免れた家屋があり、わずか数メートルの距離の差に、普段通りの日常があった。「どうすればいいの」――自宅に戻れない3家族は、小さな一団となって、ただ公園に居続けるしかなかった。消防署員から各罹災者への個別の聞き込みが、公園内の各所であった。
殺人的な暑さの中で、署員、隊員は自前で複数の飲料水タンクと紙コップを用意し、こまめに水分を補給しながら作業に当たった。防護服の内部はサウナのようだろう。頭が下がる思いがした。だがそんな私の感情もすぐに「罹災者」という厳しい現実が打ち消していった。
着の身着のままの弟と妹は、日中は町会会館に身を寄せた。区役所の防災課の職員が未明から現場で動いていた。この夜から二人は、とりあえず区の公共施設に寝泊りすることになった。 (隆)