『八ヶ岳と涸沢で会った若い二人』
コラム「架橋」
今から10年近く前に、私は八ヶ岳に登った。暑い日で、中央線の茅野駅で降り、私はテクテクと行者小屋を越えて歩いていった。ちょうど赤岳を過ぎたあたりで、前を歩いていた若いカップルが、小屋に水を忘れてきたと騒ぎだした。私はザックから出したばかりの500ミリのペットボトルを彼らに差し出した。若い二人はベコンと頭を下げて、そのペットボトルを持っていった。私はなんとなくいい事をしたと思い、ルンルン気分になったのを今も鮮明に覚えている。
この時の「茶色のボトルと白いラベル」と同じものを今日、御中元のチラシで見た。10年前のことなのに、ボトルのラベルに書かれた製品名も記憶しているから不思議だ。彼らと会った直後から雨まじりになり、その夜私は、「黒ユリヒュッテ」に泊まった。晩飯後、私窓から外を見ていると、あの若いカップルが来て「これを飲んでくれ」と言う。それは同じようなビンに入った日本酒であった。
私はそれを受け取り部屋に帰り、「さきいか」をつまみにそれを飲んだ。実にうまい日本酒であった。それ以降、酒屋に入るとその銘柄の酒を棚に探すが見つからない。彼らはその酒を山形県の庄内から運んで来たことは確かだ。ありがたいことであった。
私のような酒飲み=アル中は、酒の上での失敗はいっぱいあるが、人に話せるような思い出は数が少ない。この話は少ない自慢話のうちのひとつだ。
この若いカップルとは、二年後長野涸沢で再び会った。彼らはその後、登る山を書いて葉書をくれるが、会ったことがない。私の方があまり山に行けなくなったのがその理由かも知れない。私が庄内の知人と言えるのは、酒田の従兄とこの若いカップルしかいない。
私は早速電話した。「今度来る時に、『酒田の酒』を頼む」と。酒田や鶴岡などの庄内はいい所だ。頭をあげると北方になだやかに裾野を広げる鳥海山がそびえ、南には出羽三山の姿がのぞめる。山から日本海に吹く風がいい。唯一真冬の風は「吹くというより吹きつける寒い風」なので勘弁願いたい。もう一度住む所を選べるなら是非「荘内」にしたい。(武)