鉄道を捨てたJR

コラム「架橋」

 国鉄が1987年、第3次中曽根内閣により行政改革という合理化によって、分割民営化され今年で34年。当時の新聞、テレビでは国鉄職員のあら探しばかりが報道され、分割民営化こそが大義であり、利用者の利便性向上に繋がると煽り立てた。
 さて当時と比べて現在のJRはどうであろうか。利便性の向上どころか、鉄道部門を次々に削減し、ローカル線の廃止、減便など利用者が乗りたくても乗ることのできない経営を推し進めている。国鉄は、国の財産ではなく国民の税金により築かれた「国民の財産」であることに間違いない。合理化によって形成された遊休地には、次々と商業施設がつくられ、まさにJRは不動産を中心とした総合商社に変節したと言い切れる。
 先日、休みを利用してあるローカル線に乗った。その線区は首都圏にありながら清流沿いに走る風光明媚な普通電車だ。電車が駅に停まるたびに駅舎を何気なしに見ていると、あることに気がついた。それは、駅舎にトイレが設置されていないことだ。もちろん車内にはトイレがあるが、乗降者にとって不便きわまりないことであろう。
 最近よく北海道の小駅が廃止されることを耳にする。乗客が少ない駅は、駅舎を存続することが経費負担増につながり経営圧迫の要因になるというから驚きである。前述したトイレの廃止も同じ考えと言えるだろう。
 かつての国鉄職員には鉄道への誇りと愛着があった。豪雪でも大雨でも、安全を考慮しながら走り続け安易な運休などなく、職員も今よりもっと人間味があったと思う。今は、人間味よりサービス優先というが、乗客を考えたサービスなど霧散してしまった。青春18切符の使用規定改悪もその一例だ。
 新幹線が整備されるまで、夜行列車は移動手段の最たるものだった。そのため寝台車は別として普通席を確保するために発車時間の4時間前には、ホームに新聞紙を引いて座り込んだ事を思い出す。
 しかし、以前にも書いたが、みどりの窓口に延々と並び続ける方が辛いのはボクだけじゃあるまい。 (雨)

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