真夏の惨事 (3)

コラム「架橋」

 命からがら逃げ出した弟妹の喫緊の課題は、「寝る場所」の確保だった。火元の二人暮らしの夫婦は「行方が分からない」。隣家の夫婦は別の場所で飲食店を経営、賃貸の店舗に家族を一時避難させた。別の一軒は、高齢の母親が一人暮らしだったが、たまたま息子が実家に来ていて車いすで脱出した。
 火災から一週間後に、妹は早々と民間アパートを探し、弟は「緊急一時保護事業」による施設に入所した。この混乱の時期、親族や地域住民以外で現場に駆けつけてくれたのは、地域での護憲運動、そして本紙の周辺の人々であった。
 地元の仲間は出火当日に公園で妹と言葉を交わし、弟が仮住まいに移動できたのは、他の自治体に長く勤める同志の、的確な助言があったからに他ならない。
 うだるような熱波の中で、焦げ臭い焼け跡に分け入り、わずかに残った私の思い出の品を運び出したのも、本紙読者の面々であり、その保管場所の提供に名乗りをあげたのは、地域で活動する仲間だった。神奈川で公立高校の教師をしていた70歳の従兄は、初めて私の実家を訪れた。公と私の境界を越えたつながりを実感した夏だった。
 罹災後の失意と落胆のさなか、早々と通常勤務に戻った弟妹に代わり、私は平日の指定休を利用して、事後処理に走り回った。焼けあとの保全と解体業者の選定。そして母の死後、相続に係る登記変更をする以前の、建物の滅失登記。さらに解体にあたって行政の指定する「老朽家屋」扱いによる、解体費用の補助申請などである。
 地元役所の当該部署、法務局、さらに借地を管理する不動産業者と話をするなかで、建築基準法における「2項道路」や「セットバック」(道路後退)の問題が明らかになった。細い路地が迷路のように入り組み、木造家屋が密集する土地柄である。建築基準法上の「道路(4m幅)」はおろか、2m以下の路地など、この街では当たり前の見慣れた風景だ。
 命が助かったことを救いとすれば、同じ場所で、せめて絶望を上書きする再出発で、希望を積みかさねていくしかない。そう思い直した矢先の「壁」だった。「建て替え」について、曖昧に言葉を濁す不動産屋の社長の顔を、この時、思い出した。 (隆)

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