真夏の惨事 (4)

コラム「架橋」

 焼失から現在まで、常に協力的だったのがAさんである。地域の兄弟姉妹が横に同級で小中学校に通う、そんなつながりが珍しくなかった。実家を出てからほぼ初対面である私に、近隣情報を細かく教えてくれた。夫のBさん、息子、義母との4人暮らしだったが1年前、夫が思わぬ事故に遭った。
 地元の中小企業に勤務していたBさんは、会社の収益が悪化、自らがリストラを断行する役割を命じられた。共に働いてきた仲間の首を切ることに思い悩み、酒量が増えた。人員整理をした後に自らも職場を去った。精神を癒す期間を経て得た職は、地元大手スーパーの販売員だった。野菜を扱う青果部門で客と接する楽しさを知り、新たな一歩を踏み出していた。仕事にも同僚にも慣れた頃、ようやく「みんなで飲みに行こう」という話になった。
 商店街の居酒屋で楽しんだBさんらは、店を出て帰路についた。外は雨だった。上機嫌の彼はその日サンダル履きだった。細い道に引かれた白線が濡れていた。Bさんは足を滑らせて転倒、後頭部を路面に強打した。
 すぐに救急車が呼ばれた。町の病院では手に負えない重症で、都内屈指の救急病院に搬送された。一命をとりとめた後に転院したのは、療養病院だった。妻Aさんは自身の職場にも近く、頻繁に見舞いに訪れていたという。
 ベッドで寝たきりの末に、火災のひと月半後に他界した。大柄でがっしりとした体格のBさんの遺体は、子供のように小さくなっていた。葬儀で受付を務めたのは、隣家で一人暮らしをしていた同級のCさんだった。
 Cさんは前職でリストラに遭ったが、弁護士を立て「自己都合退職」を撤回させた。火災の頃は就職訓練で北海道に行って家を空け、造園技術を学び帰省後、石垣島に渡った。大きな実家は処分せず、たまに様子を見に帰って来るという。Aさんによれば、親友の死で「人間、いつどこでどうなるか分からない。人生を思うままに生きよう」と決めたという。
 「Cちゃんは夫の事故の時もその後も、いろいろ親切にしてくれたんです」とAさんは語る。「そうですか。私には彼が幼い頃ののんびり屋の記憶しかないが、しっかりした大人になっていたんですね」。 (隆)

前の記事

賞与と退職金、そして年金

次の記事

落ち葉から見えてくること