平野靖識(三里塚歴史考証室)陳述書 2024年11月11日 ②
シンポジウムに至る前段のところから述べます。
1988年当時、熱田派同盟の石井新二、相川勝重氏ら一部青年行動隊員は同盟外の有志と、空港を巡って賛成と反対で対立し地域の振興がままならない現状を何とかするために、地域振興連絡協議会(地連協)を作りました。青年行動隊といってもすでに当時40代の半ばになり地域に責任を持つ年代でした。地連協会長には地元芝山町在住の千葉大学教授・村山元英氏がなりました。地連協はまず地元にとって避けて通れない成田空港問題について学識経験者に行司役になってもらい、政府・空港公団と反対派農民との公開討論会を開くことを考え各方面に参加の要請をしました。政府(運輸省)、千葉県はこの構想に前向きな対応を示しました。反対同盟三派(北原派は分かれて北原派、小川派となっていた)のうち北原派と小川派からは激しい反発がありました。
反対同盟熱田派は、公開討論への参加条件として「1、地連協は政府・運輸省に対して、二期工事の土地問題を解決するために、いかなる状況の下においても強制的手段を取らないことを確約させること。(以下2~5略)」との、要請を行いました。(91・4・9)
これに対し運輸省側は、村岡運輸大臣名で「参加条件第1項につきましては(中略)二期工事の土地問題を解決するために、いかなる状況の下においても強制的手段を取らないことを確約いたします。」との回答を寄せました。反対同盟熱田派は、これを評価してシンポジウムに参加することを決めました。
紆余曲折はありましたが、次の5名の学識者を委員としてシンポジウムは始められました。
隅谷三喜男 団長 東大名誉教授 元東京女子大学長 経済学博士 宇沢弘文 新潟大学教授 東大名誉教授 経済学博士 河宮信郎 中京大学教授 工学博士 高橋寿夫 日本空港ビルディング社長 元運輸省航空局長 山本雄二郎 高千穂商科大学教授 元産経新聞論説副委員長
この学識者グループは隅谷調査団と呼ばれています。隅谷調査団は「成田空港問題の原因を究明し、その現状を明らかにし、社会正義にかなった解決の途を探る調査団」と自ら規定し、シンポジウムの目的もそのようなものとされました。(91・6・18)
シンポジウムは前半は事業認定失効の議論(6回まで)、中頃は20年間の空港問題紛糾の経過の検証(7回から13回)、そして議論のまとめ(14・15回)とすすみました。途中隅谷調査団は所見を発表し、事業認定失効論につき「運輸省が土地収用法は形式的にはなお適用可能であるとすることは、社会正義の視点からも問題があると言わざるを得ない」との見解を示しました。そしてシンポジウム最終回で、国は地元へ十分な説明をすることなく早い時期から土地収用法の手続きを進め強制力に頼ったたことを謝罪し、土地収用裁決申請をすべて取り下げることを約しました。空港2期用地をどうするかは、次の円卓会議に引き継がれることとなりました。
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シンポジウム終結後の1993年6月16日に空港公団は「収用裁決申請の取り下げ」を千葉県土地収用委員会に対し行いました。これにより事業認定は失効し、収用権限も消滅しました。これ以後成田・三里塚において土地収用法による行政代執行は無いことと確定しました。
円卓会議でも、空港2期をどうするかは決着がつきませんでした、国は横風用滑走路(C滑走路)は凍結することを認めましたが、平行滑走路はなお必要とし、反対同盟熱田派は2期計画の廃止を求め、跡地にはたとえば「地球的課題の実験村」のような田園回復の取り組みに解放すべきであると提案しました。
円卓会議の終結に際して、隅谷調査団から最終所見が示されました。その中で平行滑走路問題について以下のように取りまとめました。
「(前略)平行滑走路の建設を必要とする運輸省の方針は世論のすう勢や地域社会の多くの意見を踏まえれば理解できるところである。(改行)なお、平行滑走路のための用地の取得のために、あらゆる意味で強制的手段が用いられてはならず、あくまでも話し合いで解決されなければならない。この話し合い解決という基本姿勢は、シンポジウム開催の準備段階から、運輸省が再三にわたって公の場で表明してきたことであり、今後は(中略)計画予定地および騒音下住民との合意を形成しながら進めることが肝要である。」(94・10・11)
熱田派同盟はこれを受け入れ、参加各方面もこれを受け入れ円卓会議は終結しました。
成田空港の用地問題の解決には 強制手段の放棄、話し合い解決、合意形成によって進めることがこの時に確約されたのです。
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先述のとおり空港会社は、シンポジウムに続く「成田空港問題円卓会議」での隅谷調査団最終所見に示された「平行滑走路のための用地の取得のために、あらゆる意味で強制的手段が用いられてはならず、あくまでも話し合いにより解決されなければならない。」の文言はもっぱら土地収用法の行政代執行に依らないことを求めているだけで民事的な権利行使まで制限するものでないと主張します。しかしシンポジウムの結果として事業認定は失効しており、その収用権限の発動としての行政代執行はこの時以降行使できない状態となりました。
したがって、その後の円卓会議の終結時の隅谷調査団最終所見に述べられた「あらゆる意味で(の)強制的手段」とは、「土地収用法の行政代執行は言うに及ばず、その他のあらゆる強制的手段」の意であり、その指すものの筆頭は民事的手段による土地取り上げであることは明白です。
シンポジウム・円卓会議以後の成田空港2期の経過・現状は、円卓会議の合意の通り進んだかというと、そうではありません。むしろ残念ながら合意はことごとく運輸省(現国土交通省)および空港公団(現空港会社)によって裏切られて推移してきたというしかありません。(添付の年表/略)
1996年12月に運輸省は、地元の合意のないまま、2000年までに2500メートル平行滑走路の建設を目指すと発表しました。すぐ熱田派同盟の柳川代表は、地元の合意が無く、初めに完成時期ありきの建設計画の発表は円卓会議の合意に反し受け入れられないと反対を表明しました。1998年10月に東峰区では平行滑走路に反対する「東峰区声明」を出しています。
1999年5月21日運輸大臣は地元に諮ることなくワールドカップ日韓共同開催の2002年6月までに2200mの暫定平行滑走路※を作ることを閣議に報告しました。これに対してシンポジウム・円卓会議の隅谷調査団の隅谷三喜男氏は6月29日成田市内での会合で「サッカーワールドカップを完成時期とするなどはもってのほか/空港計画の変更は住民の理解を得て進めなくてはいけない」と批判しました。
※暫定とは本来の2500mでなく短縮滑走炉であるため
これ以後は添付の年表(略)を抜書きします。
1999年12月1日 運輸大臣暫定滑走路の工事計画を認可 12月3日暫定滑走路着工
2000年4月17日 暫定滑走路東峰地区着工 開拓組合道路の遮断、生活道路の切り回し
2001年6月16日 空港公団 東峰神社の立ち木を抜打ち伐採 村の防風林(竹林)を伐採
10月15日 暫定滑走路の飛行検査開始
2002年4月18日 暫定滑走路供用開始以後暫定滑走路南側に位置する東峰は平均96デシベル、最大時110デシベル強の騒音下におかれる。
12月1日 暫定滑走路誘導路南端付近で航空機どうしの接触事故
20032年1月27日 エアジャパン機 暫定滑走路南でオーバーラン事故
2004年4月 空港公団、国が全額を出資する株式会社に組織替え
2004年11月1日 北側国土交通大臣、空港会社に暫定滑走路の2500メートル化にむけて、東峰区地権者との用地交渉を指示、年明けまでの報告を求める 空港会社・黒野社長、本来計画(2500メートル化)への協力を求め区との会見を求めてくる
地域との何らの合意のないまま建設強行された暫定平行滑走路は、2002年4月に供用されました。
2004年11月1日
北川一雄国交相は黒野匡彦空港会社社長に対し平行滑走路の2500メートル化に向け、東峰の地権者との交渉を進めるよう指示しました。期限は2005年年明けとし、用地交渉の見通しが得られなければ、本来計画の南側(東峰)への延長は断念し、すでに用地取得済みである北側への延長という計画変更もやむおえないことを示唆しました。
空港会社黒野社長はこの指示を受けて、東峰区地権者に用地交渉の話し合いを求めてきました。要請は「暫定滑走路問題で東峰住民の方々にいろいろご迷惑をかけていることをお詫びし、あわせて会社の置かれている立場をご説明したい」というものでした。東峰区は7件の区民※の一致を損なわないよう慎重に議論を重ね、有志4人※が対応することにしました。
※7件の区民 小泉英政 萩原進 島村昭治 石井恒司 川嶌みつ江 樋ケ守男 三里塚物産(平野)
※有志4人 小泉英政 石井恒司 樋ケ守男 三里塚物産(平野)
話し合いに入る前に、空港会社が「暫定滑走路問題で東峰住民の方々にいろいろご迷惑をかけている」というその具体的内容と、それをどう考えているかの文書化を求めました。4月初めまで、この文書のやり取りがありました。黒野社長は、東峰区への働きかけが続いていることを理由に、国交相に暫定滑走路の延伸決定を伸ばすよう要請している模様でした。4月になり「東峰区の皆様へ(案)」の内容が区にとってほぼ受け入れ可能なものとなったので、4月14日東峰区住民有志が、2500m化の議論より先に、暫定滑走路の被害の実態・暫定滑走路強行運用の経過の検証を行うことを条件に空港会社社長と会うこととし、1回目会見を行いました。この会見で黒野社長は「東峰区の皆様へ」(別紙)の内容に沿ったお詫びを述べたうえ、国交相から従来計画での地権者への協力要請を期限付きで迫られている空港会社の立場を説明しました。
文書「東峰区の皆様へ」は5月9日の第2回目の会見で、正式に東峰区に示され、約束に従い空港会社の広報誌「空港だより」に掲載されホームページ上でも公開されました。
空港会社と東峰区の会見は、暫定滑走路の運航がもたらしている東峰地区への被害などの検証が、6月30日第4回まで続きましたが、7月半ば、国交相はこの話し合いには平行滑走路の本来計画である南側(東峰)への延伸への可能性がないものと判断し、北への延伸方針を決めました。
北伸2500メートル平行滑走路は2009年10月供用開始となりました。
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成田空港会社元社長黒野匡彦氏の東峰区へのお詫びには、成田空港平行滑走路の建設過程の最高責任者としての反省がこめられていると思います。「東峰区の皆様に対して、話し合いや私どもからの十分な説明はなく通告だけといわれても致し方ない状況でした」と反省しています。これは本件、横堀農業研修センター共有持ち分の買い受け通告にも当てはまる内容だと思います。
暫定滑走路の延長問題の時、空港会社は東峰区の地権者に対し相当長い時間を取り、話し合いを求め、話合いを実現しました。話合いの続く間は国土交通大臣に北伸決定を先延ばしするよう求めるなど、それなり丁寧な対応を取りました。結局話合いは国交大臣の北伸決定でとん挫することになったのですが、結果、国・空港会社は東峰地区への滑走路(南進)建設を断念したことになります。これは円卓会議合意に沿った成り行きでした。
※ただし、東峰区住民は暫定滑走路でも、北伸2500m滑走路の一層強度な騒音にさらされる状態ですから、“計画予定地および騒音下住民との合意を形成しながら進めること”との円卓合意に反しているとして、円卓会議後に強行供用された平行滑走路を正統なものと認めていません。
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農業研修センター共有持ち分の買受けについて、空港会社は共有者に話し合いや十分な説明をしていません。通告だけを柳川氏ほか3名にした(2023年6月13日)だけで、一方的に定めたきわめて短い期限(同6月30日)までに対応が無かったとして裁判を提起(同8月2日)しました。同じ成田空港用地取得の過程で、このように短兵急に土地所有権を奪おうとしていることにはかつて黒野社長が東峰区に示したお詫びと反省が全く生かされていません。
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コンセンサスづくりの話し合いがとん挫した場合であっても、“あらゆる意味で強制的手段が用いられてはならず、あくまでも話し合いで解決されなければならない”のであり、これが円卓会議で合意された成田空港問題の平和的解決の道筋です。
先に述べたとおり小泉(大木)よねさんの家屋敷と田が強制代執行されたのは1971年9月でした。空港工事完成のために緊急性があったと空港公団は説明しましたが、成田空港の開港は7年後の1978年5月です。この間1973年12月17日によねさんはがんにより66歳の生涯を東峰の仮住まいで閉じました。
開港が遅れたのは千葉港から成田空港に航空燃料を送るパイプライン敷設が沿線住民の反対にあって大幅に遅れたこと、鉄道・高速道路の空港へのアクセスの完成遅れ、銚子上空が飛行コースになることを知らされた銚子市・議会・市民の反対運動、隣接する百里基地との空域問題の解決に時間を要したことなどにあります。よねさんの家屋敷・田の土地さえ取得できれば、すぐに空港が完成し開港に漕ぎつけるという緊急性はなかったことになります。このことは成田シンポジウムで議論され、よねさんへの代執行は残る反対派土地所有者に対する威嚇・見せしめとして作用したことが指摘されました。
国、空港会社は20
29年度までに第3滑走路を含む成田空港の機能強化を達成するとしています。しかし発表されたいくつかの計画図や施設の配置図などをみると、回ごとに異動があり、計画がまだ構想段階であり細部については確定していないことを示しています(略)。
誘導路の敷設についても変化が見られます。
空港会社は訴状に、別紙7(略)として「成田空港平面図」を示し「本件土地(3筆)」が誘導路上にかかっていることを示します。この図は添付の3の計画図に沿ったものと思われます。ところがこの後2つのターミナルをまとめて一つにするいわゆるワンターミナル構想が浮上し今は添付4の計画図が発表されています。添付4(略)の計画図では、第3C滑走路から延びる誘導路は3の計画図と異なり「くの字」型に曲がらず、直進してB滑走路方向へむかうものと、途中から直角にA滑走路方向に曲がるようにと変化しています。すなわち誘導路も、空港会社が本裁判に提出した別紙7「成田空港平面図」(略)から変わっています。計画がまだ流動的であり、誘導路位置も確定したものでないということをうかがわせます。
今はまず話し合いに進み、シンポジウム・円卓会議で積み上げた合意形成による成田空港問題の平和解決の道に立ち戻るべきと思います。
裁判官におかれましては、成田空港問題・三里塚闘争の長い苦難の歴史から生まれた話し合いと合意形成による解決という道筋に沿った結論を導かれますよう、切に要望するものです。
2024年11月11日

「女川原発再稼働差止訴訟原告団」の日野正美さんが報告(左)

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