下宿の「おねえさん」の訃報

コラム「架橋」

 1970年1年間、とある学生相手の下宿屋さんにお世話になった。高校生闘争で逮捕され自主退学となり、東京の私立高校に転校した。
 下宿屋は和風2階建ての建物で、10部屋くらいはあった。私の部屋は3畳だったか、とん袋が畳の上に備え付けられて、非常に狭い部屋。朝夕食付、風呂や洗濯場は共同で。
 経営者は「戦争で夫を亡くした女性」だったか?、われわれは「お姉さん」と呼んでいた。住んでいたのは私以外全員が大学生。東京学芸大学、東京経済大学、早稲田大学など。たまにみんなで酒を酌み交わしながら交流した。お姉さんの料理が美味しかったこと、田舎から出て来て、右も左も分からなかったが親切にしてもらった。大学生とも仲良くなり、いろいろ討論もした。女子大学生と映画『エロス+虐殺』(関東大震災時に、大杉栄、伊藤野枝らの虐殺をテーマにした映画)を見に行ったことをなぜか鮮明に覚えている。
 高校には通ったが、勉強は全くやる気なし。その高校でも、活動家はいて、私の闘争経歴を話すとすぐに仲良しになった。都内のデモに一緒に行ったりした。その内の一人はインターの労働者組織に参加した。1968年に静岡県清水市で起きた金嬉老事件を通じて知ったチョパリの会に連絡を取りその活動に参加した。会議やら、集会デモと忙しかった。東京の地理にはうといが、デモのための公園への行き先は真っ先に覚えた。
 夏休み中、近くの一橋大学小平分校へ。少い人数でバリスト中だった。リーダーが休み明けには解除に向けて機動隊がやって来るだろうと、暗い展望を語っていた。何とその人とは1980年代に東京拘置所に管制塔被告への差し入れをしに行った時、ばったりあった。その人は胸に弁護士バッチを着けていた。彼はその後、オーム真理教麻原裁判や死刑制度廃止の活動を中心的に担っていった。
 その当時、米軍立川飛行場は完全に閉鎖されていなかった。ベトナム戦争の激化で再開されるのではないかと、砂川に反戦塹壕が掘られて、現地に活動家が詰めていた。その時、会った活動家が三里塚インター現闘団員となり、その後会ったりもした。
 今でも忘れられないのは、私はある寒い冬の日終電で帰り、その途中で赤ちょうちんに寄り、熱燗と焼き鳥で一杯やった。おやじさんが、サラリーマンと思ったのか、「お兄さん遅くまで頑張るね」と声をかけてくれた。笑いをこらえて、「うん」と答えた。いっぱしの大人であった。あの熱燗の味は忘れられない。
 下宿屋のお姉さんはその後、下宿屋をたたみ、和歌山に帰った。年賀状のやり取りは続けていた。阪神淡路大震災があった時、私がボランティアで神戸に行く途中で和歌山に寄り再会した。とても歓迎してくれたことを昨日のように覚えている。
 訃報を読むと94歳とあり、私の父と同じ歳だった。安らかにお眠り下さい。 (滝)

前の記事

桜と防災

次の記事

下痢と禁酒