寄稿 袴田巌さんの人生を奪った事件から60年
60年を返せ! 死刑執行の恐怖を償え!
山崎俊樹(袴田さんの再審無罪から学び活かす会)
はじめに
1966年6月30日未明、袴田巌さんの運命を大きく変える、いわゆる袴田事件が発生した。間もなく60年を経過することになる。事件現場はいまだに当時の家並みが残り、事件の象徴的な建物である土蔵は60年前の火災の跡が確認できるほどしっかり残っている。
事件の概要に関しては、多くの方がご存じのことだと思うので、一昨年の再審無罪判決から振り返り、再審法(刑事訴訟法の再審規定)の改正に向けた今後の闘いに向けた決意を示したい。
1、袴田巖さんの無罪判決から2年
2024年9月26日、午後2時すぎ、袴田巖さんに無罪判決が言い渡された。58年の時を経た世紀を超えての無罪判決である。
1989年1月31日、島田事件の赤堀政夫さんの再審無罪判決から35年、戦後5例目の死刑再審無罪、静岡県では島田事件に続いて2例目の死刑再審無罪が言い渡された。
三日後、静岡県弁護士会が開く判決報告集会に出席した袴田さんは、「待ちきれない言葉でありました。無罪勝利が完全に実りました。ついに、完全に全部、勝ったということで、今日はめでたく皆さんの前に出てきたということです」としっかりした声で語り、姉のひで子さんに促され「ありがとうございます」とお礼の言葉を述べられた。
発言の後に、未だに残る拘禁反応の影響か、時々繰り返す呪文のような発言もあったが、その言葉はしっかりしており、出席者の驚きを誘った。今まで他のことに全く関心を寄せることなく、事件などありゃせんのだ、と言っていた袴田さんが、自分の置かれている境遇が大きく転換していたことを理解し、語った瞬間であった。
(1)証拠のねつ造を認めた
再審無罪判決では、冒頭 「被告人は無罪」 続いて
① 唯一証拠採用された1966年9月9日の検察官吉村英三がとった自白調書を、精神的な苦痛を与えて供述を強制する非人道的な取り調べによって、肉体的・精神的苦痛を与えて供述を強制したもので、実質的にねつ造されたものとして認め、証拠排除した。
② 中心的な証拠とされてきた5点の衣類は、その血痕に赤みが残ると認められ、捜査機関によって血痕を付けるなどの加工がされ、事件発生後かなりの時間を経過した後に隠されたものであるので、袴田さんを有罪にする証拠とは言えない。
③ 5点の衣類のズボンの共布(裾を詰めた時、切り取られた端切れ)も捜査機関によってねつ造されたものであるとし、証拠排除した。
これまで、袴田さんと犯行を裏付ける確かな証拠とされた5点の衣類だけでなく自白調書までが、ねつ造証拠とされたのだ。
判決には、当時検察官だった吉村英三が「警察官と連携して」という言葉が記載されている。つまり、裁判所は検察官と警察官がグルになって袴田さんを仕立て上げたと述べているに等しい内容である。
判決言い渡し後、裁判長はひで子さんに対して、「この裁判には長い時間がかかりました。裁判所にもその責任があります。裁判所は真の自由に向けて扉を開きました。裁判所は扉を開くことしかできません。」と言い訳じみた説諭を行っただけで、袴田巖さんに謝罪の言葉はなかった。
これが裁判所が取った態度である。いずれにせよ、無罪判決であったが、この判決が確定したわけではない。無罪確定は、10月9日、検察官の上訴権放棄の手続きによってである。
(2)袴田さんを犯人視した畝本検事総長談話
検察の控訴断念を素直に喜びをもって受け入れることができるのだろうか、否である。畝本検事総長は控訴断念に当たって、この無罪判決を“到底承服できないものであり、控訴して高裁の判断を仰ぐべき内容である”と述べ、あたかも犯人は袴田さんであると決めつけているからだ。にもかかわらず、
“再審請求審における司法判断が区々(まちまち)になったことなどにより、袴田さんが、結果として相当な長期間にわたり法的地位が不安定な状況に置かれてきたことにも思いを致し、熟慮を重ねた結果、本判決につき検察が控訴し、その状況が継続することは相当ではないとの判断”と、いかにも恩着せがましく、これで許してやると言わんばかりの物言いである。そこには、反省の気持ちも謝罪の意志も無い。
(3)58年ぶりに回復した公民権
無罪確定直後、袴田巖さんに衆議院選挙と最高裁裁判官国民審査の投票入場券が来た。ようやく普通の市民として生活できる環境が整ってきた。
そして2024年10月21日、津田隆好静岡県警本部長が袴田巖さんの自宅を訪れ、「逮捕から58年間の長きにわたりご心労、ご負担をおかけし申し訳ありませんでした」と謝罪の言葉を述べた。その言葉には事件当初からの捜査が誤っていたということに、何一つ触れることはなかった。
警察には、権力を持つ者を守る顔と市民を守る顔の二つがある。市民を守る警察の存在を際立たせるためには、一刻も早く袴田巖さんに謝罪し、静岡県警の態度を見せる必要があったのだろう。
翻って畝本検事総長はどうだろうか。弁護団は検事総長談話の撤回を求めているが、巖さんに死刑の恐怖を与え続けた謝罪もない。未だに犯人視しているからである。
私は、免田栄さんと赤堀正夫さんという二人の死刑囚と親しくしていた。免田さんも赤堀さんも袴田さんとは全く異なっていた。なんといっても日々の獄中生活の中で面会や文通が広く認められていたからだろう。死刑囚としての獄中生活から娑婆の生活に、大きな困難もなく移っていくことができていた。
ところが袴田さんの場合は、死刑確定(八〇年十一月)と同時に、親族・弁護人以外の文通・面会は認められなかった。そして、死刑執行の恐怖は袴田さんの心を侵していく。九〇年ごろからいわゆる拘禁反応が顕著になり、面会を拒否するようになっていった。
そして今、袴田巖さんが完全無罪を勝ち取って間もなく2年、死刑執行の恐怖に耐え続けた袴田さんの心が癒されていく兆しを感じることは難しい。もちろん加齢の影響もあるが、なんといっても確定死刑囚として日々死刑執行の恐怖に袴田さんの心が耐え切れなかったのだろう。
死刑冤罪は、被害者遺族だけでなく、犯人に仕立て上げられた袴田さんとその家族にも計り知れない被害を生む罪深い権力犯罪だ。
2、60年を返せ!死刑執行の恐怖を償え!
(1)名誉棄損と国賠訴訟
袴田巌さんの国賠訴訟弁護団は、2025年9月11日、畝本検事総長を名誉棄損で訴えた。無罪判決後、控訴断念に際して畝本検事総長は、“到底承服できないものであり、控訴して高裁の判断を仰ぐべき内容”とする袴田さんは犯人だ、とする談話を発表したからだ。9月11日は、1968年静岡地裁が、袴田さんに死刑判決を下した日である。
そして、再審無罪判決が確定した10月9日は、58年を返せ!死刑の恐怖を償え!の国家賠償請求訴訟を提訴した。
名誉棄損訴訟ではその談話内容は、①4人を殺したのは袴田であり、その証拠は十分である。②5点の衣類が捜査機関が連携して捏造したと断定したが、その証拠は示されていない、と無罪判決を批判し、③控訴して、袴田を犯人と認定させなければならない。と無罪判決を受けた袴田さんの名誉を棄損しているというものである。
さらに、総額6億を超える賠償請求訴訟を、裁判官、検察官そして警察に対して起こした。金額の問題ではない。彼らの罪深さを問う訴訟である。この訴訟では五つの違法を主張している。即ち、①捜査の違法、捜査機関は無法地帯であるとの主張、②取り調べの違法、つまり、警察官の筋書きに沿った自白を袴田さんに延々と迫る拷問である。さらに、③起訴の違法、 ④証拠ねつ造、そして⑤裁判官の違法行為である。
(2)60年を返せ!
一家四人が殺された事件は、1966年6月30日未明明らかになる。60年前はどんな時代だっただろうか。事件から一年二か月後の1967年8月31日に五点の衣類が発見される。その半年後、袴田さんの裁判が進んでいく中、同じ清水市内で大きな事件が起こる。金嬉老(キムヒロ)事件だ。
清水市内のクラブみんくす(1995年ごろまで建物は残っていた)で暴力団員二名をライフル銃で射殺、大井川の上流にある寸又峡の旅館で人質を取って立てこもった事件だ。暴力団と一体となった清水警察署の対応が問題になっている。暴力団と警察のつながりが、今では考えられないくらい濃かった時代である。当時の清水警察署は暴力団に弱みを握られていた可能性も否定できない。
一方、袴田さんの人生を奪った事件の被害者四人の中には、肋骨が切断されていた者もいた。凶器と断定されたクリ小刀でできる傷ではないし、単独で行えるような犯行でもない。そのことを一番よく知っているのが警察だったにもかかわらず、なぜ袴田さんだけに捜査の矛先を向けたのか。暴力団関係への捜査がおこなわれていたことは、当時の新聞報道でも見ることができる。残念ながら、その捜査報告書などは出てくることはなかった。そのため、捜査対象者を袴田さんにだけに絞った理由が謎である。(つづく)
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