新自由主義経済下のラテンアメリカ〔8〕

新自由主義経済10年の検証

山本三郎

1 新自由主義経済の歴史的意味

 1994年のメキシコ金融危機による落ち込みを除くと、90年代のラテンアメリカ経済は安定的に成長を続けてきた。世界経済の成長センターとしてもてはやされてきた東・東南アジア諸国の経済が、金融危機によって停滞を余儀なくされたのと対比されて、ラテンアメリカは再びエマージング・マーケット(新興市場)として注目を集めはじめたのである。
 そしてこのラテンアメリカの経済的「成功」は、債務危機以降IMF・国際資本のイニシアチブの下で本格的に導入された新自由主義経済の勝利として、またモデルケースとして喧伝されることになったのである。
 新自由主義経済はラテンアメリカの何を、どのように変えたのか。ラテンアメリカ諸国は80年代後半以降、国家主導による輸入代替工業化による開発戦略、保護政策を最終的に放棄し、市場メカニズムに立脚した輸出指向的工業化戦略を採用する。そして、それに伴う国内政策を次々と変えていった。輸入関税、輸入数量制限、為替の過大評価等の保護貿易政策を撤廃し、資本の自由化、民営化、規制撤廃等の企業の自由な活動を保障する政策を採用した。あわせて、価格の自由化、補助金削減、政府機能の縮小、社会サービスの切り捨て等の厳しい総需要抑制策と財政安定化策をとった。そして、労働市場の自由化、農地市場の自由化を行っていったのである。
 こうした政策の実施は、1930年代から本格的に開始された輸入代替工業化戦略というラテンアメリカの経済発展戦略の転換を意味しただけではなかった。輸入代替工業化戦略の下で長期に渡って形成されてきたラテンアメリカの社会構造、政治構造を急激に変化させることになった。こうした意味で1980年代はラテンアメリカを前の時代と明確に区分する歴史の転換点になったのである。
 しかし、ひるがえって考えてみれば現在ラテンアメリカ諸国が、市場メカニズムに立脚した輸出指向型の経済発展戦略を採用したということは、歴史の皮肉と言えなくもない。輸入代替工業化戦略とは、第一次産品輸出という極めて国際市場に従属した経済構造からの脱出を目指した経済戦略だった。しかし、その敗北の結果として採用された輸出指向型の工業化とは、第一次産品と工業製品の違いがあるとはいえ、国際資本とその国際市場により深く従属した経済構造だからである。したがって、経済に関するかぎり変化という言葉は、従属の深化という言葉に置き換えられるべきなのかもしれない。
 また自立を目指したはずの輸入代替工業化の過程自体が、代替化が高度化するにしたがって、その資本も技術も外資に依存することになり、工業化の主体は多国籍企業になっていった。したがって多国籍企業の主導による輸出指向型工業への転換は、その必然的結果でもあった。こうしたことを考えると、ラテンアメリカ諸国は経済的自立、資本主義的発展という出口のないメビウスの帯の上をひたすら歩きつづけているようにもみえる。
 もちろん市場メカニズムに立脚した輸出指向工業型の発展政策が国際資本に従属した政策だったとしても、その過程でラテンアメリカ諸国が工業化を実現し、経済的に自立することができるならば、資本主義的発展という点からは何ら問題はないはずである。またラテンアメリカ経済が自立しようがしまいが、新自由主義経済の下で所得格差が解消され、民主主義的社会が実現するならば、ラテンアメリカの人々にとってその政策は是とされるに違いない。90年代のラテンアメリカの安定的といわれる経済成長はそれらのことを予見しているのだろうか。そのことを以下の項で検証していきたい。

2 ラテンアメリカの経済成長の内実


 1998年ラテンアメリカ・カリブ経済委員会のラテンアメリカ経済速報によれば、1998年のラテンアメリカのGDP成長率は97年の5・2%から2・3%(暫定値、以下98年の数値は全て暫定値)へと大幅に落ち込んだ。この落ち込みは、98年の成長率を90年代の年平均値(91年~96年=3・2%)に近づくだろうと予測した97年の同経済報告の下落率を上回るものであった。とりわけブラジルを中心とするメルコスル諸国(ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイ)、ベネズエラ、ドミニカ共和国、エクアドル、ペルーの下落率は激しかった。
 また97年度の経済報告に比して注目すべきことは、97年に対GDP比マイナス1・4%だった財政収支の赤字がマイナス2・4%へと増大したこと、経常収支の赤字幅が636億ドル余から839億ドルに増加したことである。経常収支の赤字幅増加の原因は、97年に好調だった輸出が98年には前年水準にとどまり、貿易収支の赤字がマイナス123億ドルからマイナス329億ドルと3倍に激増したためであった。そして、消費者物価上昇率は10・2%と前年並だったのだが、97年に僅かに減ったとされた都市失業率は7・3%から7・9%へと上昇、90年代最高の数字を示したのである。
 〔Ⅱ〕―(1)「中南米経済の現況とその課題」の項で、97年の経済速報に基づいて現在のラテンアメリカ経済の問題点を指摘した。98年の経済速報でみるかぎり、それらの問題は解消する方向に向かうのではなく、より拡大していっているようである。
 90年代のラテンアメリカの経済成長を支えたのは、なによりも豊富な海外からの投資資金である。海外からの資金が輸入代替工業化政策を支えていたように、ラテンアメリカの新自由主義経済を支えているのも海外からの投資資金である。その点でラテンアメリカ経済の構造はなに一つ変化していない。
 1982年の債務危機以降、ラテンアメリカへの海外資金の流入は激減し、純資金移転(資本収支―純利潤・利子支払い)はマイナスに転じた。以降1990年までその赤字の構造は続くことになる。それに応じて経済成長率もマイナスに転落し、84年に一次的に経済成長率は回復するのだがその後再下落する。
 しかし、89年に債務削減交渉が合意に向かうことで、ラテンアメリカ諸国は国際金融市場に復帰し、ラテンアメリカ諸国へは再度海外資金が流入してくることになる。89年に99億ドルだった純資本流入(資本収支)は、90年には177億ドル、91年には380億ドル、92年には617億ドルと急激に増加し、91年には純資金移転も66億ドルの黒字に転換する。ラテンアメリカ諸国の経済は、メキシコ金融危機による95年の経済成長率の落ち込みを除くと、91年から97年まで3%台から5%台の安定的成長を続けたのである。
 そして、それに伴って債務総額も加速度的に増え、91年に4524億ドルだった累積債務総額は98年には6978億ドルに増加する。この額は累積債務危機が発生した82年の累積債務総額、3153億ドルの実に3倍以上になるのである。
 もちろん返済能力さえあれば、海外資金を導入して経済発展をはかることは資本主義的観点からすればなんら問題ないことである。確かにラテンアメリカ諸国全体のデット・サービス・レシオ(DSR、利子払いの財・サービス輸出額に対する比率、一般に20%を越えると融資対象として不適格とされる)は98年は15・5%と82年当時の39・2%に比すれば格段に低い数値を示している。しかし、注目しなければならないのは、98年の数値が97年のそれよりも上昇したことである。
 DSRは海外流入資金が激減し、債務削減交渉が進んだ80年代だけではなく、91年(21・7%)以降も暫時減少し続け、97年には14・5%まで減少していた。その数値が一%とはいえ、10数年ぶりに増加に転じたのである。とりわけアルゼンチン(26・1%)、ブラジル(25・7%)、ペルー(25・2%)、エクアドル(19・8%)と極めて高い数値を示した。
 DSRの上昇の原因は明らかに98年度における輸出の停滞にある。この輸出の停滞は経常収支の赤字幅の増大としても反映しており、来年以降も経常収支の赤字が増加し続けるならば、ラテンアメリカ諸国の債務返済能力の先行きに不透明感を与えるのは確実であろう。
 また財政収支の赤字幅の増加は、長期間にわたる総需要抑政策が限界に達しつつあることを示唆している。ラテンアメリカ諸国はこの間、総需要抑制策によってインフレを抑制してきた。財政収支の赤字幅が拡大するということは、97年10・3%、98年10・2%に抑えられてきた消費者物価の上昇率に黄信号がともることを意味している。
 そして、いうまでもなく経常収支の赤字と財政収支の双子の赤字は、ブラジル通貨危機を引き起こした直接的要因であった。この双子の赤字がこのまま増大するということは、通貨危機の再来を意味している。ラテンアメリカ諸国の経済にとって問題なのは、通貨危機が引き起こされる度に論議されてきた国際投機資金の過剰流動性なのではない。ラテンアメリカ経済が必然的に陥らざるをえないこの双子の赤字の構造にあるのである。

3 改善しない雇用情勢

 〔Ⅶ〕の(2)「失業率の上昇と貧困の増大」の項で、IMFの調整政策の過程で失業率が上昇し、実質賃金が大幅に低下したことを指摘した。では、80年代の末から本格的に開始された新自由主義経済の進展と経済成長によって、雇用状況は改善され、実質賃金は回復したのだろうか。
 1990年から95年にかけて、ラテンアメリカの非農業人口は年平均3・2%増加した。しかし、非農業雇用の年平均増加率は2・9%にとどまった。当然そのことは完全失業率に反映する。91年に5・8%だった完全失業率は徐々に増え続け、95年には7・2%、98年には7・9%に達し、債務危機後の85年の7・3%をも上回ったのである。
 また増加したという2・9%の雇用も、民営化された近代的な大企業がもたらしたものではなかった。増加した労働者の大部分は、小企業とインフォーマルセクターが吸収したのである。90年に53%だった非農業雇用に占める小企業及びインフォーマルセクターの比率が95年には56%に増加したことに、そのことは端的に表現されている。
 インフォーマル部門の労働者の平均所得は近代部門の労働者の賃金の半分といわれている。その労働時間はより長いのだから、時間あたりの賃金格差は一層大きくなる。結局、新自由主義経済下で実現した経済成長は、ラテンアメリカ労働者の雇用を増やさなかったし、その労働の質も向上させなかったのである。
 確かに、90年から98年にかけて、アルゼンチンとメキシコを除く多くの国で緩慢ながらも平均実質賃金は上昇している。とりわけチリとボリビアは他諸国が10%前後の伸びにとどまったのに対して、35・5%と23%という高い伸び率を示している。しかし、1980年段階の実質平均賃金の下落率(89年は80年の82%)から類推すれば、90年代ラテンアメリカ諸国の多くは実質平均賃金の面で80年の水準を回復できなかったことは確実である。
 そのことは実質最低賃金をみた時一層はっきりする。95年の都市の実質最低賃金は多くの国で90年の数値を上回っていた。しかし、89年の実質最低賃金は80年の75%(66%という資料もある)であった。実質最低賃金が80年よりも上回ったのは手元の資料にある18カ国中、パラグアイ、チリ、コスタリカ、パナマ、コロンビアの5カ国にすぎなかった。しかも、パラグアイ、コスタリカ、コロンビアは90年に比すると九五年はマイナスに転落しており、チリとパナマは70年と比較すると95年段階でも依然としてマイナスだったのである。
 そして矛盾はより弱い者へと集中する。最低賃金以下で働くケースが多いインフォーマルセクターの80年代の賃金下落率は、最低賃金のそれを大きく上回っていた。小企業とインフォーマルセクターの賃金の下落率は80年を100とすると、89年はそれぞれ70と58であった。90年代におけるインフォーマルセクターの増大は、ラテンアメリカ諸国の賃金格差の一層の拡大を示唆しているのである。

4 増加し続ける貧困層

 ラテンアメリカは1950年代以降80年代の落ち込みを別にすれば、比較的高い一人当たりの年平均GDP成長率を達成してきた。こうした一人当たりのGDPの上昇は、所得分配構造が公平であるならば当然、貧困の減少として反映していくはずである。しかし、ラテンアメリカの所得分配構造は世界で最も不公平な部類に入っている。このGDPの成長率は貧困の解消には十分に結びつかず、むしろ経済発展の過程で拡大する傾向さえみせている。
 それでも1960年から80年にかけて貧困層は、相対的には減少する傾向を示していた。60年にはラテンアメリカの世帯の半数(49%)を占めていた貧困層が、70年には40%、80年には35%に減少したからである(〔Ⅶ〕―(2)で述べたように絶対数では増加した)。
 しかし、80年代その傾向は逆転する。90年には貧困層は41%に、極貧層は80年の15%から17%に増加し、70年の水準まで後戻りするのである。これは80年代における景気の後退が反映しただけではない。この過程で行われた構造調整政策(新自由主義経済政策)によって、所得分配構造が一層不公正にさせられたことを反映しているのである。
 国営企業の民営化の過程は、工業の国内向け産業から輸出向け製品製造業部門への転換の過程でもあった。この過程で労働市場の調整、再配置が行われたわけだが、同時に自由貿易下での国際競争力を高めるための労働者の合理化、実質賃金の引き下げが行われたのである。
 新自由主義経済が少なくとも出発当初において所得分配構造を不公平にすることは、新自由主義経済を支持する経済学者も認めていることである。そのことはチリの事例をみると一層はっきりする。チリはピノチェット軍事政権のもとで、いち早く新自由主義経済政策を採用する。その結果、1970年には17%の貧困層が80年には33%、87年には39%まで急増するのである。
 チリの貧困層のパーセンテージは、90年代の経済成長の過程で一定縮小し、94年には24%にまで下落する。このことを指して、あたかも新自由主義経済が当初の段階においては所得格差を拡大させるが、その後の経済発展によって所得格差は減少するという説の例証とする人たちもいる。しかし、チリは新自由主義経済に移行後20年以上がたっている。それにもかかわらず、未だに70年の貧困層のパーセンテージを大きく上回っているのである。
 確かに、1994年のラテンアメリカの貧困層の割合は90年の41%から39%へ、絶対的貧困層は18%から17%へと下落した。しかし、この数字はあくまで相対的貧困層の減少を表しているにすぎない。貧困者の絶対数は90年の1億9720万人から2億930万人と増加しているのである。とりわけ都市における貧困層の増加は著しく、同期間に1470万人増加し1億3540万人に達している。
 そして90年から94年にかけて達成された相対的な貧困層の減少という数字さえ、この間の経済指標はそのことに黄信号が灯ったことを示している。95年の一人当たりGDP成長率のマイナス1・6%への下落と98年の0・7%への停滞、そしてこの間の失業率の増大は、貧困層の減少が95年以降も継続しているというよりも、むしろ停滞していることを示唆しているのである。

5 新自由主義経済の限界

 こうした膨大な貧困層の存在は、ラテンアメリカの民衆を苦しめてきただけではない。貧困の存在はラテンアメリカ市場を常に狭隘なものにすることによって、ラテンアメリカの資本主義的発展を常に押しとどめてきた。従って、新自由主義経済下でむしろ貧困が増大していることは、新自由主義経済の資本主義的発展の限界を示しているのである。
 新自由主義経済は所得分配を不平等にすることによって出発する。新自由主義経済がなしえたインフレの抑制や経済成長は、失業の増大や社会サービスの低下と引き換えに実現したものであった。
 ラテンアメリカ社会は極めて不公正な社会である。その大きな要因になってきたのは植民地以来の大土地所有制、逆進税である間接税に偏した税制、劣悪な教育制度等の問題である。こうした制度的問題に加えて、第二次大戦後に採用された資本集約型の輸入代替工業化政策が十分な雇用を創出しなかったことは、ラテンアメリカの所得分配構造を世界で最も不公正なものにしてきたのであった。
 新自由主義経済の展開はこの構造に拍車をかけることになった。ラテンアメリカのように極めて不平等な社会におけるさらなる不平等の拡大は、先進諸国におけるそれに比して、より深刻な打撃を社会に与えることになる。もちろん当初における不平等の拡大が、その後の経済発展によって直ちに是正されるならば問題はないかもしれない。しかし、そのことが容易でないことは見てきたとおりである。
 貧困の問題は、同時にラテンアメリカの市場の狭隘さの問題として反映する。そして、需要の問題として新自由主義経済にはねかえり、その限界を形成する。もちろん、そうした限界を補うために、ラテンアメリカ諸国の工業化政策が輸入代替工業から輸出指向型工業へと転換したことはこの論考でも見てきたとおりである。そして国内市場の狭隘さを補うために、メルコスル(南部共同市場)、アンデス地域統合等の共同市場が提唱され、実施に移されてきたのも事実である。
 しかし、それらの政策が万能ではないことは輸出指向型工業化によって発展してきたアジアNIES諸国の通貨危機、メルコスルの中心国ブラジルの通貨危機を見るまでもなく明らかなことである。これ以上ここでは輸出指向型工業化と共同市場の問題点についてはふれない。しかし、それらの政策が有効であったとしても、ブラジル、メキシコ、アルゼンチン等の市場経済規模はアジアNIES諸国に比してはるかに大きく、国内市場を無視してその持続的な経済発展は望めないのである。
 社会的不平等の拡大は需要の問題として新自由主義経済に跳ね返ってくるだけではない。同時に供給の問題にも跳ね返っていく。なぜなら、貧困と不平等の拡大は社会不安を増大させ、社会的統合を弱めていき、生産の場でも、社会でもモラルハザード(道徳的頽廃)を引き起こし、経済と社会の活力を奪っていくからである。
 そして言うまでもなく、社会不安の増大は海外投資資金の海外への逃避に直結し、通貨危機へと繋がっている。
 新自由主義経済は貧困を増大させることによって、その経済的「成功」を獲得した。しかし、貧困を解決できないということによって、今度は逆に、その資本主義的発展を制限されているのである。

THE YOUTH FRONT(青年戦線)

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