エコソーシャリズム 気候危機議論の迷路

いかがわしい意見と偽りの道の拒絶を

「北」は安全、のまやかしとの闘いを

システムを変えない「解決」は存在しない

ミシェル・レヴィ

 これらのいくつかは半分のあるいは4分の1の真実を源にしているが、他のものはフェイクニュース、嘘、またごまかしが基礎になっている。多くは、善意と健全な意図で満ちてはいるが、それはわれわれを間違った方向に連れて行くと思われる。
 われわれがそうしたスローガンを――たとえ緑の色で染められているとしても――続けるならば、われわれが袋小路に入っていると気づくことになるだろう。私は、避けるべきものとして以下に11の例を示したい。

1.われわれは「地球を救わ」なければならない

 われわれはあらゆるところでこのスローガンに出合っている。つまり、広告板で、報道で、雑誌で、政治的指導者の声明で、等々。しかしこれには意味がないのだ。
 プラネット・アースはまったく危険ではない! 気候がどうあろうとも、それは次の数十億年太陽の周りを回転し続けるだろう。地球温暖化で脅かされているものは、われわれ、つまり種としてのホモサピエンスを含む、この衛星上に現存する命の網目の多様な形態だ。
 「地球の救出」は、危機がわれわれには外在的などこか別のところのものであるとの、それは直接にはわれわれに関係していないとの、偽りの印象を与える。それが暗示するのは、われわれが人々に、かれら自身あるいはかれらの子どもたちのことを心配するのではなく、ある種漠然とした抽象である「プラネット」への心配を求めているということだ。
 「私は自分の問題にかかりきりだ。『プラネット』を心配する余裕はない」、政治的でない人々がこう応えることには何の不思議もない。

2.地球を救うための「行動にかかれ」

 際限なくうんざりさせられるこの決まり文句的スローガンは、先の定式の変種だ。
 そこには半分の真実がある。つまり、あらゆる者が個人として破局を避けることに貢献しなければならない、ということだ。しかしそのスローガンは、「小さな行為」を行うこと――明かりを消す、水道の蛇口を止める、等々――が最悪なことを避けることになる、との幻想を伝える。
 このことでわれわれは、生産と消費に関わる現在の様式における底深い構造的な変革に向けた必要を――意識的にであろうがそうでなかろうが――排除する。一方これらの構造的変革は、資本主義的生産と利潤最大化に基礎づけられた社会の基礎そのものに挑むものだ。

3.シロクマは危険な状態

 あらゆるところでわれわれが見つける写真は、溶け落ちる氷の塊の中で生き延びようとしている弱ったシロクマを示している。確かにシロクマの命は――そして極地の他の多くの種も――、脅かされている。この映像は数少ない思いやりのある魂の同情心を高めるかもしれないが、直接に住民大多数を心配させているようには見えない。
 しかし極地の氷の融解は、立派なシロクマにとってだけではなく、もっと多くとは言えないとしても、海沿いの大都市に暮らす人類の半分にとっても脅威なのだ。グリーンランドと南極大陸の巨大な氷河は海水位を数十メートル引き上げるだろう。しかしながら、2、3メートルだけでも、ベニス、アムステルダム、ロンドン、ニューヨーク、リオデジャネイロ、上海、香港といった都市を水没させるだろう。
 もちろんこれは来年起きることではない。しかし科学者は、これらの氷河融解は加速中だ、と認めている。それがどの程度急速に起きるかを予想することは不可能だ。事実として現時点では、多くの要素を計算することは難しい。
 しかしわれわれは、弱ったシロクマだけに光を当てることで、これがわれわれすべてにかかわる恐るべき問題であるという事実を隠しているのだ。

4.脆弱な諸国(たとえばバングラデシュ)が気候変動で大いに苦しんでいる

 これは半分の真実だ。確かに、温暖化はグローバルサウスの貧しい、そしてCO2排出では責任が最小の国々に痛々しい影響を及ぼすだろう(そしてすでに及ぼしている)。さらに、これらの国々が気候の惨害、ハリケーン、干ばつ、また水源の減少によって最大の影響を受けるだろう、ということも真実だ。
 しかし間違いなのは、これらの同じ危険によって北の諸国が影響を受けることはないだろうと想像することだ。われわれはこの間、米国、カナダ、オーストラリアにおける恐るべき森林火災を見てこなかったのだろうか? 熱波が欧州で多数の犠牲者を生み出さなかったのだろうか? またわれわれは、米国の湾岸と大西洋諸国を打ち壊したような、ハリケーンの頻度と強さが増大したことを見てこなかったのだろうか? われわれはこうした事例を積み上げることもできよう。
 脅威が南の民衆にだけ関係しているとの印象をわれわれが保持するならば、信念のある国際主義者の少数派だけが危険を理解することになる。しかしながら、遅かれ早かれ人類のすべてが前例のない惨事に直面するだろう。われわれは北の住民に、この脅威がかれらにもまたどれほど直接影響を及ぼすか、を説明しなければならないのだ。

5.2100年頃、産業革命期以前より気温は3・5度C、あるいは想像もできないような6・3度F、上昇しそうだ

 これは、多くのまじめな文書中に見出される断言だ。しかしそれは私には、不確実であると共に、いくつかの点で迂回的であるように見える。
 まず科学的な観点では、われわれは気候変動が直線的なプロセスではないことを分かっている。それは突然加速する可能性もあるのだ。温暖化の多くの要素には相互影響作用があり、その結果は予測できない。たとえば、森林火災は巨大な量のCO2を排出し、それは温暖化に力を貸し、こうして森林火災をさらに激化させる。したがって2、3年のうちに何が起きるかを予想することが難しければ、われわれはどのようにして1世紀も先に何が起きるのかを予想するふりをできるのだろうか?
 政治的観点からは、今世紀末にはわれわれ全員が死んでいるだろう、同様にわれわれの子どもたちや孫たちのほとんどもそうだろう。直接的にも間接的にもかれらに関係しないような未来のために、われわれはどうすれば人びとの注意と参加を動員できるだろうか? われわれは将来の世代のことを心配しなければならないのだろうか?
 それは、たとえば哲学者のハンス・ヨナス(ドイツの実存哲学者:訳者)によって十分に論じられたような高貴な考えだ。ちなみに彼は、われわれにはまだ生まれていない者たちに向けた道義的な義務がある、と説明している。少数の者はこの議論によって心を動かされるかもしれないとしても、ほとんどの場合、2100年に何が起きるかがかれらを十分に引き入れることにならはないだろう。

6.2050年までにわれわれは「カーボンニュートラル」を達成するつもりだ

 EUとさまざまなEU諸政府からのこの約束は、半分の真実でも、ナイーブな善意でもない。それは、混じりけのない、また単純なごまかしだ。
 第1に、科学界(権威のある「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC))が要求する次の3年から4年にわたる差し迫った変革に今専心する代わりに、われわれの指導者たちは2050年に向けた奇蹟を約束しているのだ。
 しかしこれは、明らかに圧倒的に遅すぎる。その上、4年か5年ごとに政府が変わるのだから、30年の時間でそれらの約束を行っている者たちには説明責任が全くない中で、それらの約束に対する保証は何だろうか? それは、筋道の立たない約束で現在の無作為を正当化するための滑稽なやり方だ。
 第2に、「ニュートラル」は、排出の根底的な削減を意味するものではなく、その完全な逆だ! これは、相殺を基礎とする誤解に導く計算だ。XY社はCO2を排出し続けるが、CO2の同等量を吸収する――森林が火災に遭わないならば――という想定の下にインドネシアで植林するのだ。
 しかしこれらの「埋め合わせの仕組み」ですらすでに、同等にはならないとして、多くの環境NGOによって検証済みだ。これは、「カーボンニュートラル」の約束に含まれた完全なごまかしを明らかにしている。

7.われわれの個々の銀行(あるいは石油企業)は再生可能エネルギーに資金を出し、こうしてそれは「環境的移行」に参加している

 グリーンウォッシングからなるこの決まり文句もまた操作的な「事実」を基礎にしている。確かに銀行や多国籍企業は再生可能エネルギーに投資している。しかし、欧州の環境と税の公正さに関する組織であるATTACと他のNGOは、これがそれらの金融的活動の小さな――ときには薄っぺらな――部分にすぎない、と示している。
 それらの投資の塊は、石油、石炭、天然ガス、また他の化石燃料に向かい続けている。それは単純に、収益性と市場の分け前を求める競争の問題だ。
 「合理的な」政府(トランプやブラジルのボルソナロとは異なる)すべてもまた、それらが環境的な移行と再生可能エネルギーに専心している、と誓っている。しかし、化石エネルギーの供給――最近では、ロシアの侵略政策を理由とした天然ガス――に関して問題が起こるや否や、それらは褐炭火力発電所を再稼働させることで石炭に避難しているのだ。さらにそれらは、(血にまみれた)サウジアラビア王家に石油生産増大を懇願している。
 「環境的な移行」に関する立派な演説は不愉快な真実を隠している。つまり、再生可能エネルギーを開発するだけでは不十分ということだ。とにかくこれらは途切れ途切れなのだ。つまり北ヨーロッパでは、太陽が常に輝くわけではない。確かに、この分野で技術での前進はある。しかしそれらもあらゆることを解決できるわけではない。
 中でも、再生可能エネルギーは枯渇の危険がある鉱物資源を必要としている。風力や太陽光が無制限の財であるとしても、それらの利用に必要なあらゆる物質(リチウム、銅、等々)の場合、これは少しも事実ではないのだ。
 したがって、全体としてのエネルギー消費における削減と選択的な引き下げを入念に考えることが必要になるだろう。これらの方策は資本主義的生産の枠組みの内部では想像もできない。

8.炭素隔離と捕獲技術のおかげでわれわれは気候の破局を回避できるだろう

 これは諸政府がますます利用している主張であり、一定のまじめな文書(すなわちIPCCの)の中にすら見出せる。それは、技術の奇蹟的解決に対する幻想であり、その解決がわれわれの生産様式とわれわれの暮らし方で何かを変える必要なしに気候を救い出すだろう、とするものだ。
 残念なことに悲しい真実は、大気中の炭素を分離し捕獲するためのこれらの奇蹟的技術は現実からほど遠い、ということだ。確かに、ここそこで進行中の僅かの計画として、僅かの試みは起きている。しかし当座、われわれはこの技術に効果がある、効率的、あるいは機能する、と言うことはできない。
 また技術は捕獲か分離(漏れ出しに不透性がある地下の領域で実現する)のどちらの困難も解決したことがない。また、将来にそれがそうすることができるという保証もまったくない。

9.電気自動車のおかげでわれわれは実質的に温室効果ガス排出を減らすだろう

 これは半分の真実に関するさらにもうひとつの事例だ。確かに、電気自動車は内燃機関自動車(ガソリンあるいはディーゼル)よりも汚染が少なく、したがって都市住民の健康にとって破滅性が小さい。しかしながら気候変動の観点からは、それらの実績はもっとはるかに正負が混じり合っている。
 それらはCO2排出はより小さいが、損害の大きい「電力に伴うあらゆること」に寄与している。電力はほとんどの国で、化石燃料(石炭、天然ガス、石油)から生産されている。電気自動車から削減された排出は、より大きな電力消費から帰結する排出増加によって「相殺」されている。
 フランスで電力はもうひとつの行き止まりである核エネルギーによって生産されている。ブラジルでは巨大ダムが森林を破壊し、それゆえ炭素の流れの増大に責任がある。
 われわれが排出を抜本的に削減したいのであれば、自家用車の販売における相当な削減を免れることはできない。交通にはもっと効率的で代わりになる手段がある。たとえば、無料の公共交通、歩行者ゾーン、自転車道だ。電気自動車は、われわれはただ技術を変えることにより以前同様続けることができる、との幻想を持続させる。

10.われわれがCO2排出を削減可能になるのは、炭素税や排出権市場といった、「市場メカニズム」を通してだ

 何人かの心からのエコロジストでも、これらの市場メカニズムがひとつの出口になるかもしれない、と見ている。しかし、それもまたごまかしだ。市場メカニズムは温室効果ガス削減の点で完全な効果のなさをはっきり示してきた。
 これらは、「環境的な移行」の対価を労働者階級に払わせたがる反社会的方策であるだけでなく、何よりも、それらは排出の限定に実質的に寄与することもできないのだ。京都議定書で制定された「炭素市場」の劇的な破綻は、この現実の最良の実地証明だ。
 現実にこの2世紀の間システムを機能させてきた化石燃料の全能性にブレーキをかけることができるのは、資本主義市場の論理を基礎とした「間接的な」、「動機付け」の方策を通してではない。
 まずは、資本主義的なエネルギー独占を収用し、化石燃料利用を抜本的に削減する使命をもつ公的なエネルギーサービスを生み出すことが必要になるだろう。

11.気候変動は今や避けがたく、「われわれに可能なのは適応だけ」

 たとえば、フランスのマクロン政府で環境的移行相を務めているクリストフィ・ブデュー氏は先頃、「われわれがわれわれの努力がどうあろうと地球温暖化を妨げることが今後できない以上、われわれはそれに適応しつつ、その作用を限定するための管理を行わなければならない」と言明した。
 これは、最悪を避けるための「われわれの努力」の放棄を正当化する洗練された処方箋だ。しかしながら、IPCCの科学者は、以下のことをはっきりと説明してきた。つまり、温暖化が実際にすでに始まっているとしても、産業革命以前期レベルより1・5度C(2・7度F)高い危険ライン以下にとどまることはなお可能――われわれが即座に極めて意味ある形で温室効果ガス排出を削減し始める、という条件で――だ、と。

結論は何か?

 もちろん、われわれは適応に挑まなければならない。しかし、気候変動が統制から逃れ出て加速するならば、「適応」も幻想にすぎない。50度C(122度F)の温度にわれわれはどう適応するのだろうか?
 われわれは事例を増やすことも可能だろう。そのすべては、われわれが気候変動を避けたいのであれば、われわれは資本主義のシステムを変え、それをもっと平等主義的な生産と消費の形態で置き換えなければならない、との結論に導く。この不可欠な方向こそ、われわれがエコソーシャリズムと呼ぶものだ。(「アゲンスト・ザ・カレント」より)

▼筆者は第4インターナショナルの活動家、エコソーシャリスト、また哲学者。国際エコソーシャリスト宣言の共同起草者で、パリにおける2007年の最初の国際エコソーシャリスト会議を組織したひとりでもある。(「インターナショナルビューポイント」2024年11月1日)  

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