中国 清掃労働者の殺人事件と「罰金による管理」
労働者への慢性的抑圧と権利否認
公共部門の責任逃れも明らかに
2023年7月21日 祥子(シアンズ)
中国での社会的緊張の広がりを推測させる事件が度々伝えられている。そこには、急速な資本主義化の中での、さらに中国における強権化が加わった、労働者の権利に対する厳しい抑圧があると思われる。以下の清掃労働者に関する論考はその一端を示している。(「かけはし」編集部)
行政は街頭の清掃労働を市場化へと転換する過程で、財政支出の削減による業務委託を通して、公的コストを現場労働者からの搾取に転化している。罰金を通じた管理もその一つである。
また悲劇が繰り返された
山西省の57歳の清掃労働者が罰金5元を課されたことで激怒して罰金を課した職長ともめ事になり、職長が死亡した。多くの人は、なぜわずか「5元」の少額の罰金で清掃労働者が錯乱して、このような恐ろしい事態に至ったのか理解できない。会社や行政にとって、この事件は「悪意ある争議」や「極端な感情的爆発」の典型的ケースだと言われる可能性がある。この労働者を雇用していた清掃会社は事件直後に、「写真の証拠に基づく苦情を申し立てられた場合、清掃員は罰金を科せられる。これは通常の罰金である」というコメントを発して、自らに責任がないかのように装った。発言権のない労働者のほうが悪いと言われるのはいつものことだ。
「通常の罰金」とは何だろうか? ウェイボー(中国のSNS)では「通常のことならなんで殺された」、「この5元は溺れる者がつかむ『最後の藁』だったのでは」という冷静なコメントがならんでいる。「5元の罰金」が1回かぎりのことなら、労働者は素直に受け入れるかもしれない。しかし残念なことに、清掃業界では「罰金による管理」は決して個別のケースではなく、業界全体に広がる体系的かつ構造的な労働者へのパワハラとして存在している。清掃労働者の権利に注目してきた団体「心環衛」〔環衛=「環境衛生」の略で路上清掃事業やそこで働く労働者を指す。組織としてはすでに解散している〕が広州で実施した調査では、回答を寄せた500人あまりの清掃労働者のうち、91%が不合理な罰金を科せられたことがあると回答、そのうち罰金を科せられた理由に納得していると答えたのは4%、そして一度も罰金を科されたことがなかったのはわずか5%に過ぎなかった。
同様に、インターネットで「清掃労働の罰金」を検索すると、何百万件もの検索結果が表示され、罰金の理由も奇妙なものばかりだ。この一連の悲劇において構造的に抑圧されているのは誰なのか、この点についてネットユーザーははっきりと知っている。亡くなった職長の悲劇を軽視するわけではないが、「罰金による管理」という業界の構造的な隠然たる規則に議論の焦点を当てるべきである。
殺人は暴力だが「罰金による管理」による慢性的なパワハラはより過酷な暴力
山西省の事件では、労働者が罰金を科せられた理由は明らかにされていないが、最も可能性が高い理由は道路にゴミが放置されたままになっていたことが考えられる。このような理由による罰金は合理的であるように思えるが、道路清掃という特殊な種類の作業の場合、その背後には職場の抑圧が存在していることが多い。
実際、清掃労働者が毎日清掃を受け持つ道路区間は、面積4キロ~5キロ平方メートル、長さにして最大1キロにも及ぶことがよくある(清掃員の一般的な仕事の流れは、作業開始から2時間以内に路面全体の清掃を行い、それが終了したら巡回して清潔な状態を維持する。作業中の歩行数は2万~3万歩に達する)。ゴミをきれいに掃いた後からすぐにゴミを捨てる人もいる。また歩道と車道の間の縁石にたまったゴミの処理も必要だ。縁石や地面には、タバコの吸い殻、広告ビラ、さらには放置されたシェア自転車などもある。労働者に路面を常にきれいに保つよう要求することはほぼ不可能であるため、多くの管理者には自分の裁量で罰則を実施する余地が与えられている。このような状況なので、職長は何度か労働者に注意しさえすれば、労働者は適切な清潔を維持できたのかもしれないが、清掃業界では懲罰的な罰金制度によって管理が実施されている。
私たち(心環衛)が各地の清掃労働者を訪問したところ、残念なことに、「業績管理システム」の名の下に「作業の品質を確保する」ためにつくられたように見えるこれらの罰則は、最終的には管理者が不満を持つ労働者を抑圧し、服従させるためのツールになっている。西安市の道路清掃ではずっと「清潔度を判断するためにグラム単位でゴミを計る」、「吸い殻を数えて罰金を科す」などの不条理な罰則が長年続いていた。また広州市の道路清掃では、「従わない」労働者を選択的に選び出して、その労働者のミスなどを見つけて報復するための「従業員規定」が長期間にわたって使用されてきた。
広州市を例に挙げると、道路清掃ステーションが提示する「従業員規則」には、従業員の腕章未着用、清掃用具の不適切な配置、職場での座り込みや休憩、管理職との衝突など、罰金に関する細則が44項目もある。その結果、通行人の道案内をすることなどが仕事をさぼっているとみなされ、道具部屋でスマホの充電をすると規則違反だとして(管理者は除く)、罰金を科せられる。さらには毎月の罰金ノルマなども課せられているというのだ。
山西省の場合、罰金は5元だが、広州市の場合は50元の罰金が科せられる。清掃労働者の一日の基本給は100元程度である。罰金以外にも、残業を減らしたり〔時給換算なので収入が減る〕、他の報奨金を減額されたりする。これは残業代に大きく依存している清掃労働者にとってさらに致命的である。上司による「自由気ままな」罰金によって労働者が汗水たらして稼いだ賃金の半分が消えてなくなるのだ。さらに深刻なことは、罰金を科せられた場合、労働者には不服を訴えるための社内体制がなく、すべてが完全に上司の裁量に委ねられている。こうして不服を訴えるという労働者の権利を「合理的に」侵害している。このような野放図な罰金が幅を利かすなか、労働者があえて何かを言うことができるだろうか? 規定には、従業員が罰金処分を受け入れる署名を拒否したり、口頭で、または物理的に管理者に反抗したりした場合に、従業員を「懲戒」する(罰金を2倍にする)という規定もある。職場での自由な休憩時間の管理、労働者のあいだの交流の排除、仕事内容への事細かな注意事項、不満をもつ労働者への報復など、罰金は清掃労働者にとって呪いの呪文となっている。
「罰金」という形の構造的暴力
労働者は、何の落ち度がなくても毎日怯えながら働かなければならないか、上司に従順になり、良好な関係を築くために付け届けするかしかなくなる(ひどい場合には上司の性的要求に応えなければならない。広州では清掃労働者に対するセクハラ事件があった)。従順で、さまざまな手段を使って管理者と良好な関係を築くことで、情実評価がされ、楽な清掃区域(交通量が少ない、つまりゴミが少なく、検査要員や管理者が検査・監督に訪れることがほとんどないなど)を割り当ててもらったり、残業を余分にあてがってもらえることで収入が増加する。逆に暗黙のルールに従わないなら、毎日たいへんな目に遭い、「罰金による管理」が功を奏することとなる。
「通常の罰金」を隠れ蓑とした長期的かつ慢性的な抑圧は、清掃労働者に対する血に飢えた暴力であり、現場の労働者は構造的な被害者である。広州の清掃労働者、余有徳も「罰金による管理」によって殺されたひとりである。彼は2019年10月26日の「清掃労働者の日」にアパートで死亡しているのが発見された。その2日前に、仕事中の居眠りがバレて5点(250元)減点され、年間累計で20点減点されたため、解雇補償金も支払われずに解雇されてしまった。57歳になるこの清掃労働者は、数年前に仕事で右手を負傷して労働能力を失っていたが、長年の雇用契約に基づくと、この事業所は彼と期間の定めのない雇用に転換する責任があった。しかし彼は一方的に解雇されてしまい、途方に暮れて酒を浴びるほど飲んで死んでしまったのだ。余有徳の突然の死は、この制度的暴力のあからさまな現れではないだろうか?
今回の山西省の事件容疑者の清掃労働者、王連を包み込んだ憤懣やるかたない怒りは、職場に蔓延する恒常的な抑圧的暴力が原因ではなかったのか?
抑圧を助長する「罰金による管理」に正当性はあるのか?
清掃業界における罰金は長年にわたって批判されてきた。ここでは「罰金による管理」の組織的な抑圧について再度議論し、その法的根拠の問題だけでなく、なぜこのあからさまに違法な職場の抑圧が長年にわたって存在しつづけ、労働者の上にのしかかってきたのかを論じようとしている。
たとえば、ホワイトカラーにおける「996」〔朝9時から夜9時まで週6日勤務の劣悪な労働環境〕が労働法の時間外労働規定に重大に違反していることは明らかだが、社会システム全体がその存在の「正当性」を黙認してしまっている。中国の清掃業界の「罰金による管理」に対する長年の黙認と無関心は、行政運営における公共部門の市場志向の論理に根ざしている。行政は清掃業界の市場志向の変革を進めてきた。委託企業に向けられる財政予算は限られており、コストは現場労働者の搾取に転嫁され、その結果として罰金が科せられることになっているのである
清掃業界の罰金制度は法的根拠に欠ける。1982年の「企業職工賞罰規定」は、「労働法」と「労働契約法」に引き継がれたが、その際、計画経済の時代に運用されていた労働者に対する罰金制度は廃止された。民間企業は営利目的で存在しているので、職員に対しては〔行政的な罰金という手法ではなく〕教育や訓示という手法で問題を処理しなければならないとされた。また職場で定められた賞罰規定を含む就業規則は、「労働契約法」によれば、職員代表大会や職員全体の会合での議論なしには、経営側の思惑だけで労働者の通常業務になんらかの制限を加えてはならないことになっている。
しかし現在、企業においては、労働者らの同意もなく労働契約書に処罰規定を盛り込み、労働者にサインを求める「無理強い」的方法が横行しており、明らかに違反行為の疑いがある。しかし、労働者と経営者の力が不平等であること、また法律が曖昧なため、労働者にはこの慣行に抵抗するための十分な時間、エネルギー、法的保護がないのが実情だ。雇用主はこの明らかな力の不均衡を利用し、業績報酬を装った罰金を導入し、労働者の正当な権利と利益を侵害してきた。罰金による管理が変質し、それが拡大してきた背景には、清掃事業が資本主義的市場化の圧力を受けてきた状況がある。2000年初頭、国は地方公共部門の効率化を口実に、全国の清掃事業で市場改革を開始した。公共部門の「市場化」が「負担軽減と効率向上」の秘訣だと考え、清掃事業を委託会社や派遣会社に差し出した。
市場指向の清掃事業改革では、委託企業は「最低価格で入札する」という市場ルールに従って入札案件を競い、行政は契約や監督責任など雇用主以外の責任のみを負うことになる。行政は初期段階で財政支出をある程度削減したが、委託企業も賃金カット、労働強化、「頭数を貪る」〔原文:吃人頭費。下記「原注」参照〕、法律で定められた保障基準の引き下げなど、利益を上げるためにプロジェクトのコスト削減を図り、それに伴って政府責任の圧縮や監督権限の低下が常態化した。しかし清掃事業への支出の一時的な減少は、市場化による業務効率の根本的改善によるものではなく、委託企業が清掃労働者を大幅に削減し、それに伴う一人当たりの業務量の急増によるものであり、それによって労働者の雇用が不安定化した。その後の技術の向上や都市発展によって潤った財政収入の増加が、直接労働者の利益になったわけではなく、資本(そして意識的に削減された清掃行政の現場部門)の利益の一部となるだろう。清掃事業の市場化改革は、実際には新たな「捕食者」を呼び込んだだけだった。
このような利潤追求型の官民連携モデルは、長期的には労働紛争を必然的に誘発することになり、近年各地で発生している清掃事業における賃金未払いへの抗議やストライキ事件は、基本的に「市場化」と切り離せないものとなっている。
広州などの一部の都市では、清掃労働者の大規模な抗議活動の発生を受けて、清掃事業をふたたび行政管理下に置き始めているが、再「直営化」された清掃事業でも依然として市場化の管理モデル、つまり「頭数を貪る」手法や福利厚生の圧縮が見られており、何も変わっていない。このような悪質な搾取に満ちた経営論理の下で、「罰金による管理」のシステムは、業務効率を向上させるという目的ではなく、労働者らを服従させる手段として、管理職の間で広く普及してきた。
不平等再生産の中核的仕組み
資本の論理の下で「利益確保」を実現するには、剰余価値を搾取するための一連の管理手法と規則に服従させるための手段が必要である。清掃産業の市場化改革における「効率第一」という至上命題は、本質的に行政の責任回避と企業の営利目的での市場参入の共謀性を隠蔽している。ここ数年ニュースになっている「罰金による管理」や清掃労働者にGPSを持たせて位置管理をする手法などは、いずれも資本の下での権力の不平等を強化する、清掃産業全体の規律システムの中核をなす極意である。この権力ロジックのもと、行政は実質的な管理者にもかかわらず使用者としての責任を転嫁し、委託企業は行政の暗黙の「保護」をうけて労働者を抑圧するためのさまざまな手段を開発し、非人道的な就業規則(例えば裁量的な労働時間)、法的保護の縮小(社会保険に加入しない、雇用契約を交わさない)、「頭数を貪る」〔予算人数以下しか雇用しない〕労働強化で利益を上げるなどの非人道的な管理規則をおこなってきた。「罰金による管理」はこの利益の創出を促進する上で重要な枠割を果たしてきた。
判例は「罰金規定は違法で非合理である」と明確に指摘しているが、職場の暗黙のルールとしての「罰金による管理」が長期にわたりさまざまな業界で広がっている現状を防止できていない。長年にわたって議論されてきたなかで無視されているのは、この生産システムにおいて現場労働者の声が不在であるという構造的要因である。
「罰金による管理」制度の存在は、法的な問題であるだけでなく、資本主義システムのもとで清掃産業における権力の不平等を再生産するための中核的なメカニズムであり、現場の労働者の不満表明に対する日常的な抑圧の懲罰手段となっている。
結語:「罰金による管理」による
「殺人事件」をなくすために
山西省の警察は7月13日に清掃労働者の王連を逮捕したと発表。余有徳〔前述の罰金を科せられてヤケ酒を飲んで死亡した広州の清掃労働者〕と同じ年齢だったこのベテランの清掃労働者もまた、「罰金による管理」という邪悪な罰則によって人生を破滅に追いやられた。
ふざけたことに、余有徳が急死したことを嘆き、非道な罰則についてSNSで不満を述べた同じ職場の労働者たちが、会社から減点5点という通知を受け取ったことだ(減点5点によって罰金250元が科され、四半期ごとのボーナス数百元がカットされ、残業ナシ=収入減という処分を受ける)。余有徳は罰則に殺されたが、その罰則は彼の死を嘆いた他の労働者に対しても牙をむき続けているのだ。山西の事件では、殺された清掃ステーションの職長は被害者であるが、容疑者の王連の人生もまた「罰金による管理」という罰則によって破滅に追いやられた。
どちらもともに「罰金による管理」の被害者であり、行政と資本が癒着して搾取するシステムにおける被抑圧者である。
あらゆる種類の公然たる、または隠然たる「罰金による管理」制度を廃止することは可能だろうか? 単に法的制限を課すだけでは明らかに十分ではない。広州市は2018年末に発表した「広州市清掃事業の雇用に関する意見」の中で、「法的根拠のない罰金や給与カット規則を定めることはできないし、してはならない」と明確に強調した。しかし「罰金による管理」は、広州の各地区の清掃ステーションで、さまざまな形で依然として横行している。広州天河区では、労働者が長年にわたって不当な罰金について粘り強く報告し、苦情を申し立ててきたため、罰金による管理はそれほど横行していない。たんに紙切れ一枚の行政文書や市民の同情だけに頼るだけでは、清掃労働者が直面する罰金や抑圧を真に改善するのは困難なことは明らかだ。
山西で発生した清掃労働者・王連の悲劇的な事件は、資本の利潤追求と生産管理に基づいたこの経営モデルが、本当に清掃労働者の存在を尊厳あるものとして扱っているのかということを、徹底的に見直す必要があることを改めて思い起させた。行政が責任を回避し、法律が正義を実現できていない状況で、労働者が権利のために争議を起こすとすぐに「暴力的」だとか「悪質な争議だ」などとレッテルを張られることなく、意思表明や抗議する空間と力をいかにして保持することができるだろうか? いかにして労働者がふたたび職場で権力と自立性を保持することを可能にするのか、その根本問題に応えることが必要だろう。
王連の悲劇は彼ひとりの問題ではない。搾取に基づく利潤志向の生産システムによる慢性的な抑圧、これこそが労働者に対する最大の暴力といえる。悲劇的な殺人事件の根底にあるのは、人心の乱れではなく、悪質なシステムが生み出す絶望なのだ。
筆者は清掃労働者の権利団体「心環衛」創設者
(原注)清掃業界におけるいわゆる「頭数を貪る(吃人頭費)」――自治体の清掃事業の委託予算では、雇用する労働者のおおよその数を明示するが、委託企業はそれよりも少ない労働者を雇用し、一人当たりの労働時間や労働強度を増大することで業務を遂行する。これによって節約された雇用コストは企業または地方自治体の懐に入ることを、一般に「頭数をむさぼる(吃人頭費)」と呼んでいる。深刻な場合には、市場化によって一人当たりの業務量がそれまでの2~3倍になる。これこそが、清掃事業における利益ねん出の極意なのである。
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