イラン レザ・パーレヴィの無責任な扇動
革命? しかしどんな種類の?
ホーシャング・セペール
イランでは、諸々の街頭、遺体公示所、また墓地が今遺体で散らかされている。予想できるように、イスラム共和国は今、極度の残忍さで抗議参加者の即決処刑を実行中だ。それは、決起の絞殺だけではなく異論の抑え込みをもめざした意識的な虐殺だった。
パーレヴィ
の真実の罪
こうした全体的な連なりの中で、レザ・パーレヴィがデモを呼びかけることで住民を死にいたるまで送り出してきた、と責められた。しかし彼に関する第1の問題は、彼が体現する政治的構想の性格そのものだ。第2は、前シャーの息子が彼自身にあてがいたがっている真の政治的機能だ。つまり彼は指導を熱望しているが、しかし革命の指導者としての真の役割を当然視しているわけではない。この位置取りは、原理的な矛盾を覆い隠しているつまり、ひとつの運動を組み立てがっていつつも、他方でその結果になる可能性もある革命の推進力を回避しつつ、ということだ。
パーレヴィの路線は、ジーン・シャープ(米国の政治学者、非暴力の民主主義革命の理論を提唱:訳者)の「カラー革命」理論、および限定的かつ統制された衝突を唱えるアプローチ双方を頼りにしている。両者の場合とも、強調点はもちろん、諸大衆の自己組織化にではなく、民衆的決起に水路を開くこと、実際はそれを抑制することをめざしたあらかじめ考えたシナリオに置かれている。
しかしながらイランの経験はすでに、これらのアプローチの限界を諸々示してきた。大規模な決起は、現行の体制がすでに深く弱体化している場合にのみ成功できる。逆に、衝突の分散的形態は抑圧機関がもつ集中力と向き合う以外にない。両者の場合共、諸大衆の自律的組織の不在は決定的な弱点になる。しかしながら、組織化なしでは社会的変革はまったくあり得ない。
民衆の中心性
が蜂起の現実
先頃の、特に2017年以後の蜂起から帰着している社会的現実は、王制主義者の図式とは矛盾している。永久的な構造的暴力と衝突している民衆諸階級は、かれら自身の闘争形態を発展させてきた。これらは、主に「中間階級」に影響を与える動員を分析するために発展させられたモデルには対応していない。
その上、体制の「改良主義的」派閥の崩壊以後政治的代表を奪われたこれらの「中間諸階級」の一部は、過去への郷愁の一形態へと向きを変えている。「パーレヴィ組織」は、この郷愁を捉え組織することができてきた。そして自身をひとつの代表の極として位置を定めている。極度に裕福なメディアの中継、国外四散者部分、また影響力があるさまざまなネットワークのおかげで、「パーレヴィ組織」は、民衆諸階級の一定層内を含め徐々にその影響力を伸ばしてきた。
しかしながらこの戦略は、大きな矛盾が基礎になっている。一方でそれは、社会的な怒りを動員する必要を認識している。他方でそれは、自律的な革命的な推力への転換すべてを避ける目的で、その範囲を限定しようとしている。この二重の運動――決起を励ましつつもその深化を妨げる――は、レザ・パーレヴィと彼の取り巻きの構想の心臓部を構成している。
かれらに分かっているがしかし沈黙を守っていることは、単なる大衆的決起あるいは分散的な暴力行為を通して革命が勝利することは全くない、ということだ。革命は、被支配者の進歩的な組織、つまり居住地委員会、ストライキ諸組織、既成体制に具体的に挑むことができる自己組織の諸形態、に基礎を置いた長い過程だ。
それこそがまさに王制主義者が恐れているこの見通しだ。そうしたひとつの推力は、かれらの統制を超えて自律的な勢力に道を開くと思われる。近年の歴史は、社会の諸構造内に自身を根付かせることができる運動が力関係を永久的に転換できる――反革命勢力がそれら自身の利益のためにそれらの運動をつかもうとする場合であっても――、と示してきた。
無防備放置し
民衆扇動追求
したがって中心的な疑問が立ちのぼる。パーレヴィが話し回っている「革命」とは何のことか、と。彼の場合それは、特殊なタイプの「国民革命」だ。つまり、人的犠牲が国際交渉におけるテコになるように、非武装の大衆を大規模抑圧にさらすことからなる戦略だ。この論理は外国の介入なしには押しつけ不可能だ。
しかしそのような見通しは袋小路だ。それは、真の解放のいかなる展望も与えることなく、民衆的決起を道具化することを基礎にしている。その中で、もっとも不安定な諸階級――ストライキという武器に頼る手段をもってさえいない者たち――がもっとも重い犠牲を払い続けるのだ。
オルタナティブ
には組織不可欠
イスラム共和国はそれ自身なりに、暴力のエスカレートから後退するつもりはない、と見せつけてきた。これらの条件下では、組織されない決起の繰り返しは抑圧―犠牲のサイクルの再現に導くことしかできない。
この行き止まりを壊すには、上記の幻想を断ち切ることが必要だ。すなわち、「平和的移行」という輸入シナリオも、分散的衝突戦略も、それ自身では実のある変革に道を開く可能性はない、と。抑圧され搾取された大衆の自律的な組織化のみが真のオルタナティブを構成できる。
そうした考えが実行されるまで、情勢は不変のままでありそうだ――そして街頭、遺体公示所、墓地はこの袋小路の矢面に立ち続けるだろう――。
しかし現実には、問題は、パーレヴィと彼の取り巻きが大衆組織の創出に向かう可能性もあるかどうか、あるいはかれらがそうした組機を怖れそれゆえイスラム共和国を打倒できないだろう、ということではない。むしろそれは、その本当の名称が「ネオファシスト反革命」であるこの「国民革命」が、街頭決起、メディア支配、そして米国・イスラエルの軍事介入への暗黙の依存が基礎になっている、ということを心にとどめるという問題だ。
必要なところでそれは、大衆機関の設立を試みる可能性もあるとしても、それらはファシストタイプになり、その支配を固め、民衆諸大衆を解放しないことが意図されたものになると思われる。
基本的に、この議論全体は単純で不穏な現実を示している。レザ・パーレヴィは事実上反革命の先頭に立ってきた、ということだ。問題は、この「反革命」、あるいは「王党派革命」がイスラム「反革命」が1979年に勝利したように勝利できるかどうかではない。それは何よりも、この事実に気づき、1979年の大きな教訓を思い起こすという問題だ。確かに民衆的蜂起は、力強いとしても、それが諸大衆の自律的な組織化を基礎にしていなければ、吸収されたり裏切られたりする可能性があるのだ。
これを明確にすることが、真の変革はパーレヴィからも外国の介入からも現れることはなく、被抑圧層と被搾取層の、かれら自身の利害を守る組織化能力からのみ現れる、ということを理解する上で不可欠になる。(2026年4月10日)
▼筆者は、亡命イラン人の革命的マルクス主義者の活動家。「イラン内労働者との連帯」のオルガナイザーで第4インターナショナルメンバー。
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