米国 メーデー・ストロング
ノー・オルガルヒ、ノーICE、ノー・ウォー
ダン・ラボッツ
「億万長者よりも労働者を」、「ノーICE」、また「ノー・ウォー」と要求して、米国の何万という働く人々が3500の都市での「メーデー・ストロング」の抗議行動に加わった。この運動は数百万人の組合員を抱える数十の労組によって、また移民労働者センターや家内労働者グループといった他の労働者組織によって組織された。
「メーデーストロング」は、「ノー・スクール、ノー・ワーク、ノー・ショッピング」と呼びかけた。米民主的社会主義者(DSA)は、抗議行動の組織化を助け、若い気候活動家によって構成された「サンライズ」は市民的不服従に取り組んだ。サンライズの活動家は、ニューヨーク証券取引所を封鎖し、その活動家の逮捕に導いた。
各都市毎に
多様な行動
「メーデー・ストロング」は、何百万人も結集したノー・キングスのデモほど大きくはなかったとしても、「メーデー・ストロング」には多くの都市で、もっと多くの労働者階級、黒人、さらにラティーノの参加者がいた。抗議行動は州毎に、また都市ごとにさまざまに違いがあった。私の妻と私は、ニューヨークシティで同市市立大学の3万人の労働者からなる彼女の労組と共に行進した。われわれの市長であるゾーラン・マムダニは、無料バス、普遍的な子どものケア、また低家賃住宅という彼の綱領を実行するカネを必要とし、そのため最も多いスローガンは「タックス・ザ・リッチ」だった。
ラティーノの移民が数百万いるロスアンゼルスでは、数百に上った労組、コミュニティ・グループ、信仰に基づく組織のスローガンは、「サモス・エル・プエブロ(われわれは人民だ)―封鎖せよ」だった。
ノース・カロライナでのスローガンは、何千人という教員、両親、さらに生徒がさまざまな都市で行進する中で、「企業よりも子どもを」だった。6年生の教員であるアベイ・ブルークは「私は私の生徒のためにここに出ている。私はノース・カロライナ中の全生徒のためにここに出ている。われわれには資金不足があり、それでわれわれの政府にいわば宣言するためにここにいる」と記者に語った。
もちろんこのすべては、トランプ大統領、MAGA運動、共和党への抵抗の一部を形成している。人々は多くのところで、トランプ、億万長者、オリガルヒ、に反対して宣伝物を掲げ、唱和し、またファシズムの危険に警戒感を示した。
メーデーの起源
とその後の変遷
メーデーは、ドイツ人移民労働者が1886年にシカゴで率いた8時間労働を求めるストライキ運動に起源をもっていた。同市のヘイマーケット・スクエアでのアナーキストが率いる集会で爆発があり、デモ参加者ふたりが死亡、警官を含む他の多数が負傷した。8人が裁判にかけられ、この爆発を理由に死刑とひとりへの15年が宣告された。しかし彼らのひとりが自死を決行し、知事のリチャード・J・オグルズビーが死刑の2件を減刑した。1904年、社会主義インターナショナルが全社会主義政党に5月1日のできごとを記念するよう訴えた。そしてそれが国際的な労働者の日になり、社会主義者と共産主義者により不朽化されるようになったのだった。
しかし戦後期のほとんどの間、1947年から2000年代まで、米国には語るに足ようなメーデーは全くなかった。他方冷戦期ソ連邦と東欧の共産主義国家は、メーデーを赤の広場で戦車やミサイルを行進させる軍事力の儀式に変えた。米国では、政府と労組は、9月の第1月曜日にアメリカン・レイバー・デーをパレードとバーベキューで祝った。
政府への実害へ
組織化一層必要
国際的な労働者の日としてのメーデーは、プエルトリコ、メキシコ、また中米出身のラティーノ移民により、労働者と移民の権利を求める1日として復活させられた。
ノー・キングス抗議行動の組織化で中心的役割を果たしてきたインディヴィジブルのリア・グリーンバーグは、「メーデー・ストロング」は運動にとって「組織化のテスト」だった、と語った。
彼女は「われわれは人々に今、彼らの暮らしの全側面で――労働者として、学生として、また現地組織化の軸のメンバーとして――、かれらの力のさらなる行使に向け1歩進むよう求めている」「それは重要であり、それがより大きな非協力への筋力を組み上げるからだ」と加えた。
われわれは、事業と政府に実際に障害をつくる力をもつべきであるならば、われわれはもっと多くのそうした街頭のテストを必要とするだろう。(2026年5月3日)(「インターナショナルビューポイント」2026年5月5日)
The KAKEHASHI
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