フィリピン 数十年経て衰え隠せない反乱
圧力下の毛派
課題は古い教条捨て新しい問題に挑む意志
アレックス・デヨング
世界で最も長く続く反乱のひとつを率いることで、また数万人のメンバーによって、フィリピン共産党(CPP)は国際的に、急進左翼の諸部分にとって今も参照点になっている。バヤンのような組織により米国内で代表される人民闘争国際同盟(ILPS)は、その政治路線をCPPの枠組みから取り入れている。フィリピン自身の中では、CPPとそれが指導する「民族―民主」運動が今も左翼の支配的勢力だ。これが、この党の近年の進展を、世界的に国際主義的社会主義者にとっての関心の問題にしている。
党を締め付ける圧力の高まり
近年、CPPが強まる圧力の下にあることが明確になってきた。ロドリゴ・ドゥテルテ大統領との連携が2017年に崩壊した後、党、そのゲリラ、またその合法的な連携者に対する暴力的な弾圧がエスカレートした。
まず、運動を放棄させるために、致命的な力と物質的な動機付けを組み合わせるという政府の戦略が、反乱の弱体化という点で成功を見てきた。オランダへ亡命中の2022年後半における、党のイデオローグであり党創建の議長だったホセ・マリア・シソンの死は、象徴的な画期となった。
より重要なことは、その年の8月における、ベニト・ティアムゾンとウィルマ・ティアムゾンの死だった。このカップルは、1970年代はじめに学生として急進化し、次の数十年間にCPP内の指導的な活動家になった。2023年4月、党は、ふたりが約8カ月前に軍によって殺害されたことを正式に認めた。かれらの死の当時、ベニトは中央委員会議長、ウィルマは書記長だった。ニュースウェブサイトのラップラーのある記事は、かつてのCPPとその軍事部門である新人民軍(NPA)の拠点だったサマル島で、ふたりが数カ月どのように軍から追跡されたのかを詳細に記した。
かれらは、近年に殺害された高位のCPPメンバーとしては唯一ではなかった。それより6ヵ月足らず以前には、NPAの元司令官でスポークスパーソンだったメンバーが殺害された。2020年後半には、党の執行委員として1986年の選挙ボイコットという致命的な決定に責任があるメンバーの遺体が発見された。この2~3年に殺害された他のCPP―NPA指導者には、中央委員会メンバーやNPAの高位司令官が含まれる。
後退の兆候を示す情報が諸々
しかし、地下のCPP/NPAの情報を集めることは難しい。スローガンのような党の諸声明はほとんど意味をもたず、革命は「前に向かって沸き立ち」「腐ったシステムの危機はさらに深まりつつある」というもので、これは何十年間もそうだった。
NGOの「武装紛争の所在地&できごとデータ」(ACLED)が集めたデータは、2016年―2023年の時期にNPAを巻き込んだ武装衝突は僅かの減少を示しているが、衝突を誰が仕掛けたのかは特定していない。シンクタンクの「国際危機グループ」(ICG)の報告によれば、紛争中に殺害された人数は年当たり3桁の低い方であり、2024年にはおそらく前年よりも少なかった。
党の機関紙である「アング・バヤン」は、NPAの活動について詳細な報告を掲載している。そこで示された数字を合計すれば、少数の地域で起きているほとんどの衝突は、毎年の死傷者に関する似たような全体図を示している。党は、フィリピン国家の軍事能力を「腐食させ」続けている、と主張する。しかし、ほぼ1億2千万人の人口があり、中位年齢が26歳以下で大量失業がある国で、軍は簡単に新兵を見つけることができる。
全体として、2000年代最初の10年におけるアロヨ大統領期(第14代)の最後の年月と比べると、党が弱体化してきた、という結論は避けがたい。ここで挙げた年月には、NPAの活動の高まり、および1990年代における党の危機の進行の一方で党の強化があった。
マルコス体制崩壊とCPP分裂
1972年に戒厳令を宣言したマルコス体制が1986年に崩壊した後、党は、多くの過程で前期の「エリート民主主義」の復古となったことを、驚きをもってとらえた。1980年代に数百人の同志たちがどのように拷問され殺害されたかということの暴露は、ひとつのオルタナティブとしてのNPAの信頼性を掘り崩した。
次いで、あらゆることに関する権威ある人物としてのシソンによる一枚岩的イデオロギー的統一という表看板の背後で、CPPは、一定のイデオロギー的多元主義を生み出すようなさまざまな経験に基づくかなり脱集権化された運動になっていた。またこれは、運動内の激しい論争の一時期として明らかになった。90年代に向かう時期、毛沢東主義強硬派は党員の大量排除を通してこの論争を止め、かれらの脱落を言明するように党の全組織を指導した。フィリピン左翼の大きな部分は、そうした分裂と離反から現れたのだった。
CPPが危機から抜け出た時、党はかなりより小さくなっていた。党は、左翼の他の部分に対し激しい敵意をもち、党と異なった戦略に立つ小農のオルガナイザーや他の革命的グループのメンバーのような、「偽左翼」に対する暗殺作戦を始めた。党は、1980年代半ばの頂点に近づくことは決してなかったが、毛沢東主義で、より均質的なスターリン主義で組織された堅固なCPPを「再確認した」後、アロヨの益々不人気になる大統領期にいくつかの奪われた領域を回復することができた。
紋切り型の党の文書を通読してみると、CPPの諸声明は、すべてがうまくいっているわけではないという兆候をいくつか示している。近頃の声明は、1980年代に党が主張した数百のゲリラ戦線というよりも、「110以上」のゲリラ戦線を主張している。2007年に党は、「戦略的膠着」にまで前進するための武装闘争に向け5年の期限を定めた。しかしその承認後目標は満たされず、新たな期限も全く設定されておらず、ゲリラ戦争は40年前と同じ局面にあることを示している。
「整風運動」が意味すること
NPA発の声明は「数千人」の戦闘員を抱えていると主張するが、政府によれば、NPAの専従戦闘員は1500人にまで減っている。両者共に誤った主張を行ってきたので、その数字を無条件に受け取るわけにはいかないが。
党が困難を前にしているという最もはっきりした指標は、2023年の年頭声明だった。その声明は、その年に向けた全般的路線を示していると想定される。2023年の声明は、「決定的な過ちと諸傾向、弱点と欠点」を克服するための「整風運動」を訴えていた。党は、「2、3にとどまらないNPAのゲリラ戦線が停滞した」「重大な後退」があった、と書いている。
そしてその後退は毛沢東主義路線からの逸脱とされている。つまり、路線は正しいし、「客観的条件」はすばらしいとされている以上、後退は毛沢東主義からの逸脱の結果になる以外にない。こうして、党の困難への回答はさらなる毛沢東主義ということになる。この種の循環論はこの党の場合いつものことだ。
とはいえ、党がこの呼びかけを「整風運動」と決めつけていることは注目に値する。ひとつのキャンペーンに党として整風運動の標題をつけたのはこれまで2回しかなかった。それはパルティド・コムニスタ・ング・ピリピナス(PKP、1930年創建:訳者)から離脱した1960年代後半の党創建時、そして1990年代半ばの反異論派キャンペーンの時だった。「整風運動」の用語使用は、問題がどれほど深刻なのかのひとつの指標だ。
現実と益々離れる半封建社会論
この党はこれまでどのように歩んできたのだろうか? 回答の一部は、1990年代はじめ以来の党の長期過程が、われわれが見てきたように一直線的ではないとしても、後退の過程だった、ということだ。党は、フィリピンは資本主義ではなく「半封建」社会としての観点に深く傾倒している。フィリピンの基本問題は、「自由な」労働者の賃金搾取ではなく、直接的で強制的な搾取を意味するような地方における「半封建的搾取」だと力説する。
そうした搾取の典型例は、地主が所有する農地で暮らし労働し、彼らの収穫物の大きな部分を譲り渡し、地主のための不払い労働を行うよう強要される小作農だ。党はこうした理解から、直接的で機械的なやり方で、革命闘争は本質的に小規模農民に基礎を置くゲリラ戦争、だと推論している。
20世紀半ばのフィリピンに対して、あるいは1980年代であっても、それは益々現実と対立するにいたっている。フィリピン経済は今も大きく農業と農産品輸出に基礎を置いているとはいえ、生産関係は、CPPが創建されてから相当に変化を遂げた。
「農場耕作者」内部でも、小作農は1960年代の3分の1から、10年前にすでに僅か15%にまで減少している。小農として働く者の比率は、同じ時期に半減した。公式、「非公式」部門の賃金労働者は今労働人口の過半を構成している。小作農階級は、労働人口比として、また経済生産への重要性という点でも位置を下げ続けてきた。
他方で急速に成長しているのは、サービス部門――毛派が予想しなかったもの――になってきた。毛派は、経済発展は否応なく工業化の形を取るだろうと当然視し、彼らはそれが帝国主義によって妨害されると見てきた。しかし2020年後半になってもシソンは、「質的な」変化は全く起きていないと言明した。CPPの綱領は、妥当性を後退させ続けているが、しかし党は、フィリピンは非資本主義の半封建社会という彼らの見方に同意しない者たちを糾弾して数十年を過ごした。
極端に歪んだ実践への踏み込み
理論における教条主義は、実践におけるゆがみとなって表れる。その最も劇的なものは、大統領に選出されたドゥテルテとの連携を固めようとした党の2016年のもくろみだった。ドゥテルテが選出された時、彼は多くのことで政治的に未知だったが、しかしCPPにとってはそうではなかったのだ。
ドゥテルテは何十年もの間、国の南部における最重要都市であるダバオ市を預かってきた。そして彼はそこで、CPPとの間で共利関係を保持してきた。ドゥテルテは、「彼の」ダバオ市で平和をかき乱だす、犯罪との戦闘のツールとして死の部隊を使用し、それに見て見ぬふりをする地下勢力に非干渉姿勢を取った。
ドゥテルテはもちろん、先のツールを全国規模で導入し、それは数千人の殺害を意味した。これは、大統領と党間のハネムーン期に障害ではなかった。運動がドゥテルテとのその連携をダバオの先まで延ばすだろうとの最初の合図は、シソンからの声明だった。シソンはドゥテルテの大統領職は「民族の統一」にとってよいことだと声明し、ドゥテルテは毛派に内閣のポストを提供した。CPPはそのポストをつかむために数人の合法的な連携者を礼儀正しく提案した。そのひとりであるリサ・マサは2018年8月まで内閣レベルのポストでドゥテルテに仕え続けた。その後マサはILPSの書記長になった。
2016年9月の1枚の写真はその移り変わる関係を例示している。大統領官邸、マラカニアンのダイニングルームで9月26日に撮られた映像は、外交活動としてCPPが使う名称の民族民主戦線(NDF)の交渉団メンバー、およびドゥテルテの交渉チームメンバーと共にいる彼を示している。その部屋は笑いに包まれ、ドゥテルテはNDF代表者たちと共にこぶしを挙げている。彼の隣は、現在のNDF議長のルイス・ジャランドニ、次いでウィルマとベニトだ。そのふたりは1カ月前に釈放されていた。しかし続く数カ月でその関係は悪化し、2017年2月、政府とNPA間の休戦は崩壊した。
ドゥテルテが地域的な人物にすぎなかった限り、CPPとの友好的関係は、彼には都合がよかった。しかし、彼が大統領になったとたん、それはもはや選択肢ではなかった。
おそらく、ドゥテルテとのそれまでの関係を全国的連携に移すことに対する最も熱の入った支持者は、NDF委員団議長として活動するシソンだった。NDFは数カ月の間、政府と共にする改革をどこまで及ぼすかを討論し続けた。しかし政府は、それらの実行に何の利益も見ていなかった。明らかにシソンは、かつて彼の学生だったドゥテルテへの影響力を過大評価していた。
左翼の新しい極への胎動は今後
富裕層にあからさまに支配される政治システムと並んで大衆的な貧困が存在する限り、反乱に向かう潜在的可能性は残り続ける。
新型コロナ期の深い景気後退は別として、フィリピン経済は近年強力な成長を経験した――サービス部門の成長だけが理由ではない――。しかしこの成長は、この国の貧困層には、特に遠隔地の地方には、ほとんど何の意味ももたなかった。60年を経ても、CPPが突然消え去りそうにはない。休戦が崩壊した時、それは党にとっては正常への回帰のようにも見えた。
とはいえそこにはひとつの違いがある。ドゥテルテの政府は公然活動家に対する赤呼ばわりの使用を刷新しただけではなかった。降伏する叛徒への恩赦と金銭的援助、さらにNPAに対する以前の支持を放棄するコミュニティに対する支援を組み合わせた。マルコス・ジュニアの現政権もこの政策を継続している。政府は明らかに、このプログラムの成功とその程度を誇張し続けている。
CPP、およびそこから政治路線を取り入れている社会諸組織のブロックが抱える困難は、その他の左翼からの全面的な孤立として起きているわけではない。CPPが率いる運動は、フィリピン左翼にとって今でも最強の勢力だ。そして抑圧がCPPに焦点を絞っているとはいえ、それはそこに限られてはいない。たとえば、第4インターナショナルフィリピン支部、RPM―M(革命的労働者党ミンダナオ)のメンバー数人も同じく殺害されている。
フィリピン社会は都市化の進行として変化の途上にあり、労働者階級の構成も変わってきている。左翼は、かつての教条、およびかつての分裂と決別する意志、また気候危機のような新しい問題に向き合う意志を必要としている。
CPPはそうしそうにはない。しかし、特にCPPの公然活動の周辺には、毛派の教条よりも社会変革の熱望に動かされている献身的な若い活動家が多数いる。その上今のところ、過去のドゥテルテの、そして今日ではマルコス・ジュニア大統領の人気が示すように右翼が優勢だ。2022年の選挙では、社会主義派のパルティド・ラカス・ング・マサ(PLM、勤労大衆党)のレオディ・デ・グズマンが、副大統領候補としての有名な活動家かつ学者のウオルデン・ベローと共に、大統領選に立候補した。キャンペーンは、フィリピン史上初の公然とした社会主義者の大統領選キャンペーンとして新天地を切り開いた。しかし、得票率0・17%という形で、結果は活動家たちに失望をもたらした。人を引きつける新たな左翼の極は、依然これから建設される課題としてとどまっている。(2025年1月2日、「テンペスト」より)
▼筆者は、第4インターナショナル・オランダ支部機関誌の「グレンツェロース」の編集者。(「インターナショナルビューポイント」2025年1月3日)
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